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2006.06.27
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カテゴリ:雑感
生きている ココが 僕の いる場所 6月25日付け 
寝言堂さんのブログに、そう一行詩が書かれているのを見て、
思い出したことがありました。


ここからは追憶です。

六年前、中南米から二人の日本人青年が我が家にやって来た。
とても清々しい青年達だった。

話を聞けば中南米でサッカーの選手だったと言う。
そして、その契約も切れたので、
今度は、ヨーロッパでサッカーがしたい、と言った。
オランダはちょうどテストも終わった後だったし、
彼らの戦績では、無理だと分かった。

夫は親友のブラニミールに連絡をとり、彼らの事を頼んでみた。
夫がいろんな話し合いを進めている中、
私達が経営していたところで一生懸命働いてくれた。
彼らは、本当によく働いてくれた。

仕事を終えると、家の中庭で夜が更けるまで二人で練習していた。

我が家に泊まり、毎日私達の仕事を手伝っていたので、
朝、昼、夜と彼らと私達はずっと一緒だった。

彼らは、オランダ観光なんてしなかった。
ただ、不安と、希望の中を必死で生きている、
そんな感じだった。

彼らは夜中もあまり寝れずにいたらしい。
読書をしたり、話をしたりだったが、
コネもなくお金もなく、明日の見えない日々が不安だったに違いない。

しばらくして、プロテストを受ける話だけ、友人がつけてくれたようで、
彼らは揃って中欧に向かった。
彼らは、何度も何度も頭を下げ、「頑張ります!」と言い、オランダを発った。

そこにもう一人の日本人青年も加わった。
程なくして、三人からプロ試験も受かったと知らせが届いた。

ところが、ここからだった、彼らが本当に苦労したのは。

1.言葉の問題
2.給料の未払い
3.怪我、
4.監督、チームメイトとの関係
契約の不履行、住居の事など問題は次から次へと彼らを苦しめた。

当初、夫はそんな彼らの所へ日本食を持参して激励に彼らの元によく行っていた。
親友のブランミールも彼らを、温かく見守ってくれていた。
それから一年が過ぎた頃に私も夫と共に、やはり日本食を一杯抱えて、
一番遠いチームに移籍した青年の場所に駆けつけた。

本当に遠い田舎町で、誰一人東洋人に会うことはなかった。

彼の部屋に入って驚いた。
入り口、トイレ、ベット横、低い天井、壁、窓、、、に、
びっしりと「単語」が、書かれて貼り付けてあった。

彼は言った「ここで生きるという事は、言葉を覚えるということです。
「今、生きているここが、今の僕の場所です」と。

その言葉は鮮烈であった。

ここに至るまでの最初の彼らの次々届く手紙には、
こんな東欧の言葉なんか覚えても仕方ないのでは、、、
ここにいて、裏切られてばかりいる、、
と、辛い思いのものが少なくなかった。

だから私はこの青年達が、「帰りたい、、日本に帰りたい、、、」と、
どんなに思って来ただろうか、、、
それでも「今帰ってどうする」と、
葛藤しながら、ここまで辿り着いたのだろうと察すると、
ただただ、胸が熱くなった。
激励されたのは、私の方だった。

彼らはこの国の今いる地域に溶け込むためにずっと、
何ヶ月も近くの公園、道路を掃除していたという。
最初は、面白がって石を投げる子もいたらしいが、
チームを移籍しその場所を離れる頃は、
すっかり地域の人とも話せるようになったと言っていた。

それからの活躍ぶりは、その国の新聞掲載と伴に届けてくれた。
ラジオ番組にも出たそうである。
夫と私はわが事のようにその度に喜んだ。

彼らは、言葉も、今、そこにいる場所で生きる事も捨てなかった。

その後彼らは日本からサッカー関係で来てくれないかという、話があるが、
どうしたらいいかと言ってきた。

夫は「逃げないでよく頑張ってきたじゃないか、
頑張ってきたからこそ、話もあったんだろう、自分で決めればいいよ」と言った。


それから六年後の今、
その青年達の二人は、ある一部リーグのジュニアチームのコーチを。
そして残る一人は、オシム監督の通訳をしている。


今日、私は、夫とあのクロアチア人のブラニミールが、
電話でこのことを、喜びながら話しているのを耳にした。


              記 事

{千葉でオシム監督の通訳を務める間瀬秀一氏(32)が、オシムジャパンが誕生した場合“入閣”する可能性が出てきた。

 オシム監督はドイツ語、英語も話せるが、千葉入団時に「自分の意図することを正確に伝えたい」とクロアチア語での通訳を希望。そこで契約したのが間瀬氏だ。

 間瀬氏は日体大サッカー部出身。卒業後は米国、メキシコなどで、00年からは3年間クロアチアでプロとしてプレー。02年に引退後、ザグレブ大学でクロアチア語を習得。関西空港税関、クロアチアサッカー協会通訳などを経て03年にオシム監督の通訳になった。

 オシム監督からは「メモを取るな。耳でしっかり聞いて伝えろ」と怒られ、耳で聞いた言葉をそのまま、分かりやすく訳すことを心がけた。そこから生まれるのが「オシム語録」だ。繊細な監督だけに日本代表でも慣れ親しんだ通訳を求めるはず。“相棒”を務められるのは間瀬氏だけだ。}

                   [ 2006年6月26日6時13分 ] インフォシーク





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Last updated  2010.11.19 06:15:09
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