真珠核物語第4話
長い間このブログを放置したままだったが、再び筆を執る気になったのは今朝アメリカン・シェルのピーチ氏の突然の死去を知らされ喪失感と憂愁に包まれているからだった。5月29日出社早々メールを開くと同社の秘書のリサより直ちに電話をするようメッセージがはいっており、電話を入れると挨拶もそこそこに"Very bad news"と言われ"Mr. Peach passed away"と聞こえた。ピーチ氏が5月1日に円安になったと電話してきた時、脳梗塞を起こしてから家で療養している細君の容態を訊いた時、彼女はもう1ケ月も持たないで天国に行くだろうと言っていたので”Mrs. Peach passed away”でないかと思ったりしたが早口で聞き取れず”Mr. Peach himself died ?"問うと"Yes, he himself died."という返事で"Oh No"と言わざるを得なかった。葬式の案内も受けたが、小生もうパスポートが失効してしまっており、間に合わないので渡米は遠慮し、淡路の製核業者と連名で花輪を送ることにした。 享年78歳、彼の父親は100歳目前で身罷り、母親も90を過ぎての死去だったのでよもや彼が80にも到達しなくて死去するとは思いもよらなかった。3歳年下の小生を常にブラザーと呼びよく可愛がってくれた。もうその声を聞くこともないと思うと深い喪失感にうたれる。それにしても音信のなかった約1ケ月の間に何があったのだろうか。5月1日の電話では膝が痛いようなことを言っていた。女房の死期が近い事を知りながら自分が先に逝ってしまうとは何という皮肉な事だろうか。双子の息子と娘のフェイスブックには手術の悪化により死去となっているが病名は書かれていなかったので自らの死期を覚悟し遺言を残したとは考えられない。(後の連絡によれば解剖されて1週間後に遺体がカムデンのもどってきたそうだ。解剖結果はまだ知らされていない。) 彼はピーチ・ファミリーのなかでも立志伝中の人物だった。漁師の息子に生まれが学業を終えるとテネシーシェル・カンパニーに勤めた後、独立してアメリカンシェル・カンパニーを設立し真珠核製造用のミシシッピの淡水二枚貝の日本への輸出のリーダーとなった。又、淡水貝採集の際の副産物である米国産淡水真珠の最大の在庫を持ち、ユナイテッド・ステイツ・カンパニーを設立しそれを基に中国産淡水真珠、南洋真珠、アコヤ真珠も扱い米国の真珠販売の大手にもなった。それらの利益を基にテネシーの土地を購入しテナントへの賃貸や、値上がり益で富を積み上げたものだった。(フェザーパール、淡水2枚貝採集の際の副産物、しかし米国産天然淡水真珠としてカラット売りされている。) 1995年に中国浙江省の真珠市場に行き彼の中国産淡水真珠の仕入れに付き合ったことがあった。今では近代的なビルの世界最大の真珠マーケットになっているらしいが、その頃は薄汚い市場で便所も入るのがためらうほど汚かった。彼はそこでも有名人で歩いていると大勢が真珠を持って押し寄せてくるので鉄冊の付い部屋に入って、隙間から差し出す真珠を順番に検品し値段が合えばその場で現金を払って買い取るシステムだった。空調もない部屋でなまぬるい青島ビ-ルをラッパ飲みしながら手伝ったものだった。一粒でも掘り出し物の真珠があれば旅費はまかなえるとも言っていた。 商売の基本は安く仕入れ高く売るに尽きるが、東京(IJT)と神戸(IJK)で開かれた国際宝飾展に彼の会社が出展した時も手伝っていて彼が高く売るのは舌を巻くほど天賦の才に感心した。彼の自慢話になるが、6000ドルで仕入れた15mm真円のピンク色淡水真珠を天然の鑑定書を付けて8万ドルでマレーシアの客に売ったそうな。その客が又UAEの客に18万ドルで売ったと聞いて上には上があるとも言っていた。 今となっては彼と共に過ごしたいろんな思い出がよみがえってくる。洲本で宴会が終わって夜の薄暗い町を歩きどちらも年を取って小便が近くなり、急いで部屋に駆け込んだこと、海月館の屋上野天風呂でトンビが舞っているのをみながら、カリフォルニアの下には巨大マグマがありカルデラ爆発すれば巨大津波に襲われるとか、日本とアメリカの埋葬の違いとかも語り合った。又、洲本から空港行きのバスに乗って大分たってから、彼は身に着けていたショルダーバッグがないことに気付き、そこにパスポートも現金も入っているという事で無ければ今日の便に乗れないので、小生がトイレの中から窪田氏に電話してバスセンターのベンチの下に忘れているのを見つけて貰い、空港まで届けて貰ったこともあった。そんな取り留めないことが次から次へと浮かんでくる。 コーヒーを片手に見本市会場に向かう彼の姿は格好良かった。サクセス・ストーリーを歩んできたスマートな彼の唯一の誤算はその思いもかけない死だったのではなかろうか。 今をさかのぼる約一年前、最大手の製核業者の社長が93歳で亡くなった。ピーチ氏と一緒に社長の90歳の卒寿を祝う会に出席したことがある。その節社長は今度は100歳の白寿の会に招待しますと力強くいい、我々もまだまだ実現できると思っていたが、いつも電話で「ピーチさんの貝は如何なっているかいな」という問い合わせがしばらく途絶えていると思っている間に訃報をきいた。独立間もないピーチ氏の貝を最初に買ってサポートして貰った事をピーチ氏は終世忘れることなく卒寿の会のスピーチで真珠産業の功労者として最大の賛辞を送っていた。社長は貝の供給者と核の製造業者は車の両輪とも言っていた。お互い信頼関係で尊敬しあってもいた。その両巨頭がこの世を去った今、この物語もひとまず終了させて頂きます。 小生としては旧き良き時代に遅れて参入し、こつこつと落穂ひろいを続けてきただけで他の輸入業者は全て引退、撤退してしまい僅かに残った1社になってしまったが、少しでも需要がある限り落穂ひろいを続けていく覚悟です。