はんぺん

2018/04/02(月)00:00

直葬、散骨、墓じまい…進む「弔い簡素化」の行方は   2017-9-18  小谷みどり(第一生命経済研究所主席研究員)   読売新聞

知識(68)

この長文の最後のほうの、大きな間違いを指摘しておきたい。皆さんは、どう思われるか?    最後のほうの下記部分は、同意できない。 「死者は、いずれは忘れられていく存在なので、そもそも残された人のなかで記憶されなくてもよいと考える人もいるかもしれない。 だが、その場合でも、残された人の中で「死者は浄土へ行った」「星になった」「草葉のかげで見守っている」など、死後の魂の行き場が必要になる。 死んだら誰からも記憶されず、生きた証しもなく、無になるだけであったら、生きていること自体がむなしくなったりはしないだろうか。」 と言う部分だ。   「死後の魂の行き場が必要になる」・・・はあ? 「魂」などという、時代遅れ、観念論的な「ものの見方」は、どういうことだろう。 筆者の知的レベルに、疑問を強く感じた。 「魂」を誰か見たことありますか・・?   「魂」などというシロモノは、人間が頭の中に作り出した幻影だ。実在しないモノにすがる世界は、まさに観念論の世界そのものだ。 現代心に対しての説得力には欠ける事、甚だしいのではないだろうか?   また、「死んだら誰からも記憶されず、生きた証しもなく、無になるだけであったら、生きていること自体がむなしくなったりはしないだろうか。」 とあるが、なぜ、そんなことを断言できるのだろうか??   前にブログで、指摘したように、「我々が亡き後、自身についての記憶(生きた証)は、自身の子供ぐらいだろうか?  せいぜい自身の孫ぐらいで、消えていくことは明らかだ。   「誰からも記憶されず、生きた証しもなく、無になるだけであったら、生きていること自体がむなしくなったりはしないだろうか。」 とあるが、僕は、たとえ「無」になっても、そのことで「生きていること自体がむなしく」は、なりはしない!!   筆者の思考は、混乱しているようだ。古い観念、「思い込み」が、この観念論的な誤謬を生み出している感がする。   最初の「死者は、いずれは忘れられていく存在なので、そもそも残された人のなかで記憶されなくてもよいと考える人もいるかもしれない。」 ・・・それではダメなのか? それしかないだろう!!!     死者は、いつか時とともに忘れられていく・・・それ以外に、何かある??? 古い常識から抜け出せずに、もがいている筆者(小谷氏)の姿が想像できる。   皆さんは、どう思われるか?         (はんぺん) ―――――――――――――――――――――――――――――――― 直葬、散骨、墓じまい…進む「弔い簡素化」の行方は 2017-9-18  小谷みどり(第一生命経済研究所主席研究員)   読売新聞    お彼岸の墓参りは日本の伝統行事の一つだが、最近は「墓じまい」や「散骨」を選ぶなど、墓を持たない人も増えてきた。 葬儀も近親者だけで執り行い、弔問や香典は辞退するケースが多くなっている。 何がこうした変化を生んだのか。葬送問題を専門とする第一生命経済研究所主席研究員・小谷みどりさんが解き明かす。   葬儀参列者はなぜ減ったのか    人が亡くなれば、お葬式をし、遺骨はお墓に埋葬される――。今、これが「常識」ではなくなりつつある。    公正取引委員会が全国の葬儀業者に行った2016年の調査では、友人や仕事の関係者、近所に住む人なども参列する「一般葬」が減少し、 「家族葬」が増加している傾向が明らかになった。火葬のみで済ませる「直葬」が増加している、という業者の回答は26.2%もあった。    いわゆる「お葬式」をしない直葬だったからといって、遺族自身は「何もしなかった」とは思っていないこともある。 家族が遺体のそばで思い出を語り合いながら一晩を過ごすのは、遺族にとって死別の貴重な時間であり、遺族の絆を確かめ合う時間でもあるからだ。    前出の公正取引委員会の2005年調査では、5年前と比較して「参列者が減少した」という回答は67.8%だったが、 2016年の調査では86.8%に増加しており、ほとんどの葬儀業者が、お葬式の参列者は減少していると回答している。    その一番の原因は、死亡年齢の高齢化にある。    国の人口動態統計に基づく筆者の計算では、死亡時に80歳以上だった人が全死亡者に占める割合は、2000年の43.8%から 2015年には61.3%に上昇した。   男女別でみると、2015年に亡くなった人のうち、80歳以上の人の割合は男性で50.4%、女性で73.0%だった。 ようやく男性も半数が80歳を超えて亡くなる社会になった。    「人生80年時代」という言葉はずいぶん前から使われていたが、多くの男性にとって80歳まで生きるのは容易ではなかった。 2000年に亡くなった男性で80歳を超えていた人の割合は33.4%。3人に2人はそれ以前に亡くなっていたことになる。    この20年間で男女ともに長生きする人が急増している。2015年には、亡くなった女性の36.0%が90歳を超えていた。 女性にとって、「人生90年が当たり前」という時代はもう目の前だ。    超高齢になると、きょうだいや友人の多くはすでに亡くなっているうえ、親の死亡時に子どもが定年退職していれば、仕事関係などの義理で やってくる参列者は激減する。   これまでの葬儀は、遺族、参列者双方にとって、見栄みえや世間体を重視してきた傾向があったが、60歳ラインを子どもも超えれば、 こうした気遣いは不要になる。   廉価で小規模な葬儀が増えるのは当然だ。 故人が90歳近くで亡くなり、子どもたちが定年退職して何年も経過しているケースでは、故人の死を広く知らしめ、 大勢の参列者に来てもらうのは申し訳ないと遺族が考え、「火葬が終わるまであえて知らせない」という選択をする例が増えている。   広がる「家族葬」    筆者の調べでは、「家族葬」という言葉の新聞紙上での初見は、1998年6月の東京新聞の記事だ。 前年にオープンし、参列者が10人も入ればいっぱいになるほど狭い小型の葬儀会館では、密葬という言葉は使わず、家族葬と 呼んでいたことに端を発する。 その葬儀会館では、祭壇を用意せず、ひつぎを前に家族だけで読経や焼香をする様子が報じられている。     もちろん、それまでも「密葬」というかたちで、家族や身近な人たちだけでお葬式をするという動きはあった。 こうした傾向が少しずつ広がるきっかけになったのは、1992年に亡くなった漫画家、長谷川町子さんのケースだとされている。 納骨が済むまでの35日もの間、遺族がその死を伏せていたことに世間は驚いた。 1996年に亡くなった「寅さん」こと俳優の渥美清さんも、女優の沢村貞子さんも死をすぐに公表せず、告別式も行わない代わりに 「お別れ会」をした。著名人でさえも死を公にせず、家族だけでお葬式をする。世間の人たちもやがて同調するようになった。    家族数人しかいないなら、お通夜と葬儀・告別式を2日間にわたってする必要がなくなる。 「一日葬」「ワンデーセレモニー」と呼ばれるスタイルは、お通夜をせず、いわゆる葬儀・告別式、あるいは宗教的儀式の葬儀式もせず、 身内だけでの告別式をした後でそのまま火葬してしまうのが一般的な流れだ。 1日で終わるので、遺族が高齢の場合には身体的、精神的にも負担が少ない。   弔われない死者    1990年以降の生涯未婚率の急上昇で、一度も結婚しない高齢者が数年前から増加しているという現実がある。    国立社会保障・人口問題研究所が実施した「出生動向基本調査(独身者調査)」によると、1970年には、50歳の時点で 一度も結婚していない男性は1.7%しかいなかった。   2017年に97歳になる人たちだ。しかし、1990年の男性の生涯未婚率は5.6%。2015年の23.4%に 比べればかなり低いものの、1990年に50歳だった人は2015年には後期高齢者に突入している。    これから、一度も結婚していない人が続々と高齢者の仲間入りを始める。現に、2015年に65歳から69歳で、 一度も結婚していない男性の割合は9.1%に達する。    生涯未婚の高齢者は、元気なうちはいいが、介護や看護が必要になったら、頼る家族がいるのか、それは誰なのかという問題が出てくる。 介護や看護はプロに任せればいいにしても、亡くなったときに誰がお葬式をし、誰がお墓参りをするのかという問題が出てくる。    長生きすれば、きょうだいも高齢化する。きょうだいとの関係が疎遠になっていれば、献身的に面倒をみてくれるとは限らない。 これまでは亡くなる人に、妻や夫、子ども、孫がいないというケースはごく少数だった。   これからは、身寄りが誰もいない高齢者が続々と亡くなっていく未知の社会が到来する。 「死んだときに、残される家族がいる」ことが当たり前ではない社会になるのだ。    実際、未婚者だけでなく、離婚するなどして子どもと疎遠になっていたり、何十年もきょうだいと音信不通になっていたりなどの事情で、 火葬後に遺骨を引き取る親族がいない、親族から遺骨の引き取りを拒否される、といったケースも少なくない。    全国の政令市で2015年度に亡くなった人のうち、約30人に1人は、引き取り手のない無縁仏として自治体によって弔われていた という調査結果もある。 その費用は税金で賄われたことになる。大阪市では、1990年には生活保護受給者の遺骨だけで227体を引き受けた (身元不明の行旅死亡人などを入れると336体)が、2015年には1,764体(同2,039体)と8倍近くに増加していた。    引き取り手のない遺骨の増加は、多くの都市が抱える問題だ。親族の中には、「その人とは死んでもかかわりたくない」 「先祖の墓には絶対に入れたくない」「長らく音信がなく、自分にとってはもはや他人だ」という気持ちの人もいるのだろう。 それ以外のケースでも、故人との生前の関係が希薄であったことがうかがえる。   寺とのかかわり    「お葬式は仏式で」という構図も崩れつつある。仏教やお寺が檀家(だんか)にとって、葬式と法事だけで接点をもつ存在となって久しいが、 葬送の変容で寺の経済的基盤がさらに大きく揺らいでいる。   昨今では、菩提寺があることが子孫にとって負の遺産になるとして、「寺と縁を切りたい」と考える高齢者も少なくない。 墓の引っ越しを名目に、檀家をやめる人もいる。 もともと、多くは信仰で結ばれた関係ではなく、葬儀や墓を媒介とする関係であることが多いため、葬送のかたちが変われば 寺との関係も変わるのは当然だ。    一方、首都圏では、菩提寺をもたない遺族が少なくなく、葬儀社を介して僧侶が派遣されてくることは珍しくない。 実際、インターネットで「僧侶派遣」と入力して検索すると、料金を明示した僧侶派遣会社がいくつもヒットする。 「後々、寺との付き合いがないほうが気楽」「料金が明示してあるので安心」と感じる遺族もいるということの表れだ。   「弔いの無形化」の行方    お葬式やお墓は、死んでいく人と、それを見送る側の残される人の双方がいなければ成立しない。 故人を大切に思う遺族がいないのであれば、お葬式は遺体処理で十分かもしれないのだ。    実際、「死んだ後のことはどうでもいい」「遺骨は捨ててくれ」と公言する人が少なくない。「自分は死んだら無だ」と思えば、 死後のことはどうでもいいかもしれない。 お葬式の簡素化や墓じまいに歯止めがかからないのは、その必要性を多くの人が感じないから、というのもひとつの理由だ。    火葬のみ(直葬)で済ませたからといって、遺族は故人をないがしろにしているわけではない。 むしろ、参列者の接待などでばたばたするよりも、亡くなってから火葬までの最後の時間をゆっくりと遺体と一緒に過ごせたことに 満足している遺族もいるのだ。それで遺族が死の受容をできれば、何の問題もないだろう。    その一方で、遺体は亡くなった病院から安置施設や火葬場付設の霊安室へ直行し、火葬に家族が立ち会うだけであれば、 故人と一緒に過ごす最後の時間はない。もし、「それでいい」と思うなら、そうした関係性こそが問われるべきなのではないだろうか。 相手は亡くなっているのだから、遺体と一緒に過ごす時間は無意味だという考えもあるだろう。 それでも、「最後の時間を一緒に過ごしたい」と、残された人が自発的に思えるかどうか。故人と一緒に過ごしたいと思う人が 誰もいない人生は、果たして幸せなのだろうか。    死者は、いずれは忘れられていく存在なので、そもそも残された人のなかで記憶されなくてもよいと考える人もいるかもしれない。 だが、その場合でも、残された人の中で「死者は浄土へ行った」「星になった」「草葉のかげで見守っている」など、死後の魂の行き場が必要になる。 死んだら誰からも記憶されず、生きた証しもなく、無になるだけであったら、生きていること自体がむなしくなったりはしないだろうか。    宗教的な来世観をもたない人が増えてきた現代の日本では、死者は残された人の記憶のなかで生き続けるしかない。 その感覚があるのであれば、お葬式やお墓の無形化は何の問題もない。   しかし、昨今の現象は、死者とのつながりがないからこそのお葬式やお墓の無形化であって、これは、社会における人と人とのつながりが 希薄化していることの象徴でもあるのだ。 そう考えると、弔いの無形化は、互いに信頼し合い、「おたがいさま」で助け合う意識を持てる人間関係が築けない限り、ますます進んでいくだろう。

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