はんぺん

2022/02/24(木)22:55

学生運動時代の思い出を、つらつらと②・・・  (反省する勇気)は、今からでも遅くない? 遅すぎる? (2)  2021-10-10  (はんぺん)

学生運動(83)

学生運動時代の思い出を、つらつらと・・・・ (反省する勇気)は、今からでも遅くない? 遅すぎる? (2)       2021-10-10  (はんぺん)学内で、我々が集会を開始してまもなく、全共闘の襲撃が始まった。手に手に木刀や角材を持った集団が、襲いかかってきたのだ。(暴力反対)で、武闘を否定してきた我々には、対抗する術(すべ)は、無かった。 チリジリバラバラになって、逃げるしかなかったのだ。我がDSLの中では、大きな議論もあった。(我々も、最小限の自衛をするべきだ)という意見が次第に多数派になっていく。(それでは、全共闘と同じではないか? 彼らのレベルまで堕ちることはない)という意見も、依然としてあった。  これって、既視感がありませんか? そう、あの(非武装中立)をめぐる平和論争、(第9条改正論議)につながっていると・・・ 護憲論者は、「非武装であれば、誰も攻めてこない」と主張した。また「攻められても、白旗上げて堂々と降伏すれば良い」とも。 現実社会では、こんな妄想は、ありえない・・・自衛力を維持して、ありうる侵略に備えるべきだ・・・と考えるほうが説得力があるのに・・・当時の我々は、妄想?に惑わされ、空想にふけっていたのだ。 僕たちが、キャンパスの芝生の上で、教室のなかで、オルグ(説得)して、集会やデモに参加してもらった学友たちが、僕たちと同じように、蜘蛛の子を散らすように逃げ出さなければならない・・・こんな事態をどう考えるか!? せっかく参加してくれた学友が、その次も参加してくれると言い切れるのか? おそらく怖がって、参加してくれないことは、火を見るまでもなく明らかだろう。 組織の上部からは、(参加してくれたノンポリ学友を、体をはってでも守れ)とは言われたが、実際に素手でもって、どう守れば良いのだろう。 DSLの全国委員会は、時代の難局を乗り切るために、組織の防衛と運動を守るために、最小限の自衛(実力行使)を決定した。 我が組織の中では、暴力学生たちに対する融和的な考え方を持った(反主流派)もいて、その後、次第に組織分裂の火種になっていくことに・・・ 1969年から1970年にかけて、次第に学内で、内ゲバなどが増えていった・・・日共=民青などは、特にトロキスト連中から、さかんに恫喝や暴行を受けていたようだ。 暴力が学園を支配していく中では、知性は消えていくしかない・・・問答無用の時代に突入していく。アナーキズムがはびこる中で、ノンセクトラジカルという層が、全共闘の中で主流を占めはじめる。 我がDSL内の(反主流派)は、思想的混乱の中にあって、考えられないことに、このアナーキズムに接近・・・。全共闘が主導権を握る(全学統一行動)に参加していく・・・・アナーキズムをもっとも否定してきたハズの彼らの変質に、この70年安保闘争の性格が象徴的に示されていると僕は思う。 集会でも、街頭のデモでも、数(参加者)が多ければ、取り組みは成功した・・・と彼らは宣言したのだ。 世の中が、アナーキーになっていることは、べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の隆盛でも、わかっていたが・・・思想的に対立するハズの彼らに屈服していった事は、(反主流派)の自己否定だ・・・と思ったものだ。 時代の流れに、うまく付き合って、組織を守るための手段だとしたら、(運動)そのものを舐め切ったモノと言わざるを得ない。 70年闘争の敗北の主たる原因は、アナーキズムだと思う。思想的に、自由分散的アナーキズムに、既存の運動は、対応できなかった。そこに人間的自由を見出すという(過ち)を批判できなかった・・・ということではないか アナーキズムでは、各自の(自由)、(何をしても良い自由)が「絶対化」されるので、運動の参加するのも自由、運動をネグレクトするのも自由・・・となる。内ゲバなどの党派闘争で、(やばく)なると・・・(サークル主義)が流行った。サークルの中に閉じこもって、嵐を回避するというわけだ。 暴力集団(トロツキスト)と全面対峙して、学友を守るという困難な取り組みには、同じDSLの一員でありながら出てこない・・・サークルに閉じこもる・・・・ 不思議なことに、その後のDSLの内的分裂(組織戦)では、(反主流派)は、反転して武闘路線での対応となったという事も後から聞いたが・・・・なりふり構わず! だったようだ。 僕は、内ゲバで、消耗していく学生運動に見切りをつけ、1970年6月の街頭行動の後、組織を離れた。こんな状況下では、明るい未来の展望が、まったく見えてこなかったという事で、(運動)から、一時、距離を置いた。 その後、人づてに聞けば、学生戦線は、大混乱の中にあって、我が大学でも、内ゲバの応酬が繰り返されたという。未来に多くの可能性を秘めた学生たちが、殺されたり、消えない傷を負ってその後の人生を送るハメになっていく・・・ 学生運動の中で、僕は何を得たのだろう・・・多くの理論(考え方・生き方)や組織規律性、戦略的思考性・・・得たものは、確かに多かった。 が、失ったものも多い。その一つが(人間嫌い)に行き着く。多くの交わりの中で(人間不信)が増幅していく・・・所詮、人間の連帯などは、一時的な妄想なのだと。

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