はんぺん

2024/09/07(土)03:52

戦犯ヒロヒト(裕仁)の犯罪は、海よりも深く、ヤマよりも高い!! 忘れるな、この男の犯罪を!!  2024-9-7  はんぺん

反戦平和(313)

戦犯ヒロヒト(裕仁)の犯罪は、海よりも深く、ヤマよりも高い!! 忘れるな、この男の犯罪を!!  2024-9-7  はんぺん  学童疎開船「対馬丸」が、昭和19(1944)年8月22日夜に、アメリカの潜水艦により撃沈されたが、最高責任者(戦犯)は、戦争を命令したヒロヒト(裕仁)だ。この学童疎開船「対馬丸」事件では、対馬丸に乗船していた疎開学童、引率教員、一般疎開者、兵員ら1,788人のうち、疎開学童784人を含む1,484人が、殺されている。しかし、戦争を命令した、ヒロヒト(裕仁)・・・という、もっとも大切な真実が、マスコミの報道記事には書き込まれていない。 こんな一面的な偏向報道を、マスコミは、戦後ずーっと続けてきたのだ。これは(洗脳)のようなもので、(戦争はこわい)(戦争はイヤダ)(繰り返してはならない戦争)ばかりが、刷り込まれてきた。 多くの戦争が、理不尽なキッカケで始まったが、それに対しては、どうするのか?などという事は、最初から考慮されてこなかった・・・(戦争反対)だけを叫んでいれば、万事OKだったのだ。 これって(思考停止)やんか?? ウクライナが、ロシアに侵略された。日中事変では、中国大陸で、日本軍が理不尽に攻め込んで、多くの中国人を殺戮し、残酷な運命を強いた。これは、絶対に忘れてはならない(事実)だ。 この時、ウクライナ国民や中国大陸の中国人たちは、単純に(戦争はイヤダ)(戦争反対)だけを叫んでいて、(平和)は、得られたのか? 彼らは、自衛権を行使して、外敵と戦ったのではないか? (護憲論者)(9条真理教)の信者たちは、答えるべきだ!!! (非武装)や(戦争放棄条項)などは、現実には、何の役にも立たない!目を覚ませ! 護憲運動の間違いを! 戦後日本の偏向教育のため、日本は、もっとも大切な(自衛権)教育を無視してきた・・・そのツケは、大きい! 日本が、海外に進出・侵略してきた過去の歴史を(反省)するあまり、日本が外国から攻め込まれたときに、自国民の命と暮らしをいかに守るか・・・の教育が、完全に欠落してしまっていたので、(能天気な)日本人が作られてしまった!! 憲法9条さへあれば(日本は大丈夫)(非武装の平和憲法守れ)のいびつな日本人が作られてしまった・・・・戦後民主主義の(大失敗)を思う。 皆さんは、どう思われるか?   はんぺん ―――――――――――――――――――――――撃沈された学童疎開船「対馬丸」。いかだで漂流した10人のうち、乳児が母親の腕の中で死んだ。寝たら海に落ち死ぬ…おばあさんの姿が消えた。6日目、無人島に漂着。生存者は4人に減っていた〈証言 語り継ぐ戦争〉   2023/01/24 南日本新聞■平良啓子さん(88)沖縄県大宜味村喜如嘉  学童疎開船「対馬丸」が撃沈された翌日の8月23日、日本の飛行機が上空を飛んでいた。いかだの上で手を振り、「助けて」と大声で叫んだが、戻ってこなかった。  24日、いかだの端で用を足していた時、トビウオを1匹捕まえた。一緒に食べようと隣の人に預けたら勝手に食べられ、悔しくて泣いた。竹筒が流れていたので泳いで取りに行った。小豆ご飯が入っており、分け合った。若い母親の腕の中で乳児が息を引き取った。  25日朝、おばあさんがいなくなっていた。「私の分をお食べ」と小豆ご飯をくれた人だ。寝て、海に落ちたら死ぬ。眠いのを必死でこらえた。若い母親も疲れ切っており、乳飲み子の遺体を波にさらわれた。  今度は別のおばあさんが海に落ち、引き揚げた。しばらくするとまた落ちる。「もう死んでいるよ」。他の人に言われるまで気付かなかった。目が開いており、生きていると思っていた。「ごめんなさい」と手を合わせて拝み、遠くに流れていくのを見送った。  日中は太陽が照り付け、夜は寒かった。台風15号の接近で波が高い。26日になると肌は焼けただれて皮がむけ、潮風でひりひりした。服もぼろぼろ。髪が塩で固まり、抜け落ちた。とてもひもじく、喉が渇いた。  いかだの10人は27日までに5人になった。サメに襲われる人を見たことがあり、自分たちに近づいてきた時は生きた心地がしなかった。夕方、誰かが「島じゃないか」と叫んだ。しかし日が落ちたら見失った。  漂流6日目の28日明け方近く、島影が再び現れた。いかだが島の方に流され岩場に乗り上げた。宇検村の無人島・枝手久(えだてく)島だった。  いかだを降り、四つんばいで岩につかまった。目が回り歩けない。それなのに突然、7歳くらいの女の子を背負わされた。「母ちゃん」とつぶやいたきり、何も言わない。しばらくゆっくりしたら気分がよくなり、女の子を浜に下ろした。  青草を見つけて食べた。谷あいを掘れば水が湧くかもしれないと山裾へ向かった。地面を根気強く掘ったら爪が湿った。さらに掘り続け、泥水が出てきた。澄まして飲み、喉を潤した。  女の子の母親に「娘にも教えて」と言われ、浜へ戻った。「水があるよ、起きて」。声をかけても動かない。目を開けたまま息絶えていた。とうとう大人3人と私の4人になった。  舟だ-。沖へ向かう2そうのくり舟におばさんが気付いた。私はここぞとばかりに小高い岩に登った。「1、2、3」と音頭を取り、「おーい、おーい」と全員で声を張り上げた。 船頭が櫂(かい)を止め、こちらを振り向いた。「おいで、おいで」。倒れるほど両腕を振った。「これで助かる」と心底思った。あの時の喜びは何とも言えない。  久志集落の計10人ほどが舟に乗っていた。浜へ上がって来て、大人から事情を聞いた。船頭の中原見附(みつけ)さんが「お嬢ちゃん、よく頑張った。偉かったね」と優しく声をかけてきた。「さあ、お食べ」。白いご飯と柔らかい黒砂糖が入った飯ごうを差し出した。  私は夢中で頬張り、なめ尽くした。そのおいしかったこと。集落に戻る舟で中原さんの太ももに座り、古ぼけた麦わら帽子をかぶせてもらった。  近くの船越(ふのし)海岸に多くの遺体が漂着したと後で知った。住民が一人一人の穴を掘り、埋葬してくれたという。沖縄の遺族が改葬しやすいよう一つの大きな穴にまとめて埋めなかったと聞いた。 (2023年1月24日付紙面掲載)―――――――――――――――――――――資料  沖縄県公文書館1944年8月22日 学童疎開船「対馬丸」が撃沈される この日の午後10時12分頃、学童疎開船対馬丸が鹿児島県・悪石島の北西約10㎞の地点を航行中、米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃により、沈没しました。対馬丸に乗船していた疎開学童、引率教員、一般疎開者、兵員ら1,788人のうち、疎開学童784人を含む1,484人が死亡しました(2018年8月22日現在氏名判明分)。 救助された人々は、対馬丸が撃沈された事実を話すことを禁止されました。死亡者や生存者に関する詳細な調査も行われず、沖縄に残された家族は正しい情報を伝えられませんでした。集団疎開の背景 日本軍は、1941年(昭和16)12月8日にハワイ真珠湾を奇襲攻撃し、米英に宣戦布告してアジア太平洋戦争に突入しました。以後、アジア各地に占領地域を拡大し、東南アジア全域に戦線を張りました。米軍は、1944年(昭和19)2月に日本の絶対国防圏内にあるマリアナ諸島を攻撃し7月7日にサイパンを占領しました。  次の侵攻目標が南西諸島となることが予想されたことから、日本政府は南西諸島の老幼婦女子10万人の疎開(九州へ8万人、台湾へ2万人)を決定し、沖縄県知事に命令しました。  沖縄県は現地の日本軍と協議し早急に学童疎開を進めることとし、7月19日に「沖縄県学童集団疎開準備要項」を発令しました。 すでに沖縄近海には米軍の潜水艦が出没する危険な状況になっており、沖縄・鹿児島間の海域では、対馬丸を含めた疎開船などが米潜水艦の攻撃で沈没し、多くの被害者が出ました。

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