テーマ:感じたこと(2892)
カテゴリ:愛すべき動物たち
人々の信念や振る舞いを方向づけるものとして、人間が作った仕組みが宗教であるならば、 ヴィーガンは宗教ではありません。 なぜなら、個々人が自発的な思いから発した行為であり、実践であり、他の誰かが、人間が作った仕組みを盲目的に信仰しているというものではないからです。 仕組みはありません。儀式もありません。国をまたぐ組織もありません。教会もありません。教祖もいません。 そこにあるのは、「動物を苦しめたくない」という暴力や種差別に反対する道徳的倫理観であり、人として最善の方法をとりたいという個人の選択なのです。 私は、そう感じています。 魚を食べて炎上… 「ヴィーガン」の罪と罰(KAZUYA) https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190412-00559621-shincho-life ヴィーガンは、なるべく動物を犠牲にしたくないというライフスタイルの探究だと思います。 生き方が反映されています。 「極端」だと片づけられる問題ではありません。 肉食にまつわる環境破壊や倫理的な問題など、広く社会的な問題に関わっています。 そこを考えないで、今の社会では、あまりにも「宗教・信仰・極端」と片づけられてしまっています。 動物搾取をできるだけしたくないというのを、信仰と簡単に切り捨てる。 ヴィーガンは信仰だからやめられない、というのは違います。 また、大豆肉を食べることが批判されがちですが、今の社会では「食のバラエティ」が幸せの度合いに大きな割合を占めています。 だから、それを植物性食品で示しているだけです。 「動物を食べなくても大丈夫だよ」というアピールのためでもあります。 動物の苦しみを減らしなくしたいからに他なりません。 ヴィーガンが動物性食品を摂らないからといって、世界中で肉食や動物の虐待が無くなるわけではありません。だからヴィーガンが偽善的だとされるのは、偏見に満ちています。 世の中の社会正義運動は、「偽善」だなんて人々は簡単に口にしないのに、なぜヴィーガンだと、簡単に非難されるのでしょう。 日本の仏教界では、肉食が当たり前になっています。 それは間違っています。 哺乳動物を食べることは、人類がやめるべきことなのです。 肉食をしているということは、現在の人間の倫理・道徳の低さを象徴しています。 全ての動物を食べない、動物を苦しめないという選択は、宗教ではありません。 活動を非暴力と結びつけることがあっても、それは守らなければならない戒律や掟ではありません。 多くの人が、肉食にまつわる様々な問題を考えないで済むような批判ばかりに意識を向けることは、とても残念なことです。 そこで思考をストップさせてしまえば、おそらく気が楽かもしれませんが、そうして多くの人が問題を棚上げしてしまえば、そこに改善や進歩はありません。 肉食の闇です。食欲という本能が、種差別という意識が、どんなにか克服しがたいものかがよく表れています。
ごくごく一部の人の行き過ぎた行動で、ヴィーガン全てをひとくくりにしたがる、これは、差別の現れです。 そうすることで、自分を守る。この守るものといえば、肉を食べ続けたいという「欲」です。 自己保身だということに、気付けている人はいるでしょうか。 肉食を歴史的にしてきたから肉を食べてもいいんだ、しかも食べないのはおかしいとまでされてしまう。 それは、殺人や戦争を歴史的に人類はしてきたのだから、し続けてもいいのだ、と言っているようなものです。 戦争や殺人は、なくさなくてはならない、と思う人が大半で、殺人は罪だとされています。 人間と同じ哺乳動物を殺すことは殺人と同じです。 人類は、意識や価値観を変えなければいけません。 よりよい道へと続く、生き方へと。 進化、進歩する道は険しいけれど、人間はそれをやめてはいけません。 ビーガンという生き方 [ マーク・ホーソーン ] お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
October 22, 2022 09:30:36 AM
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