♪ 何事も無しと思えば何もなし底に黙(もだ)する意地を殺して
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茨木のり子の名前は知っていてもその履歴や顔姿ほとんど何も知らなかった。1926年(大正15年)6月に大阪で生まれで、愛知県西尾市で育ったらしい。
上京して帝国女子医学・薬学・理学専門学校(現・東邦大学)に進学するも戦時下の動乱に巻き込まれ、何とか生き抜いて19歳の時に終戦を迎えている。
「一人は賑やか」
ひとりは賑やか
ひとりでいるのは 賑やかだ
賑やかな賑やかな森だよ
夢がぱちぱち はぜてくる
よからぬ思いも 湧いてくる
エーデルワイスも 毒の茸も
ひとりでいるのは 賑やかだ
賑やかな賑やかな海だよ
水平線もかたむいて
荒れに荒れっちまう夜もある
なぎの日生まれる馬鹿貝もある
ひとりでいるのは賑やかだ
誓って負け惜しみなんかじゃない
ひとりでいるとき 淋しいやつが
ふたり寄ったら なお淋しい
おおぜい寄ったなら
だ だ だ だ だっと 堕落だな
恋人よ
まだどこにいるのかもわからない 君
ひとりでいるとき 一番賑やかなヤツで
あってくれ |
この詩はご主人が亡くなってから書かれたものらしい。
どちらかと言うと男っぽい感性だなと思う。串田孫一の山行も正しくこの世界ですし、私も共感するところが多い。
もちろん依存心や凭れ合うことで安心するのは、男女が共通に持っているものでしょう。でも、それに疑問が湧いてそれと抗おうとする気持ちを表すには、男の方が都合がいいのも確かでしょう。
敗戦の混乱の中、帝国劇場で上映されていたシェークスピアの喜劇「真夏の夜の夢」に感化され劇作の道を志すようになって、「読売新聞第1回戯曲募集」で佳作に選ばれ、自作童話2編がNHKラジオで放送されるなど童話作家・脚本家としても道を歩み始めたという。
1953年(27歳)に詩人仲間と同人誌『櫂』(かい)を創刊。同誌は谷川俊太郎、大岡信など多くの新鋭詩人を輩出していく。
「わたしが一番きれいだったとき」
茨木 のり子
わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした
わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達がたくさん死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった
わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差しだけを残し皆発っていった
わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った
わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり
卑屈な町をのし歩いた
わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった
わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった
だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように
ね |
1958年、32歳の時に発表したもので、多数の国語教科書に採用されているそうですね。教科書は何をテーマにしてこの詩を選んでいるのでしょうか。非戦を言うためなのか、個人の生き方として恙なくバカなことをしないように生きようというものなのか、どっちなんでしょう。教科書を知らないので分かりません。
「自分の感受性くらい」
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ |
この詩はいいですね。自立とはこういう事。どんな立場に居ようと何歳であろうと、自分で判断し自分が責任を持つということの絶対的ベースに有るべきものですね。
1977年、夫に先立たれた2年後(51歳)に発表さてたもので、戦後の苦難の中で自分を鼓舞し叱咤激励してきた時を回想しながらする書いたのでしょうか。
「倚りかからず」
もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ |
1999年、73歳の作品。前の詩の完結編とでも言うべきもので、矜持を支えにした達観の上の覚悟というもので、恐いものは何もない。
2006年に自宅で脳動脈瘤破裂によって急逝され、遺書が用意されていたとか。上の詩を発表した7年後のことらしい。
「私の意志で、葬儀・お別れ会は何もいたしません。この家も当分の間、無人となりますゆえ、弔慰の品はお花を含め、一切お送り下さいませんように。返送の無礼を重ねるだけと存じますので。“あの人も逝ったか”と一瞬、たったの一瞬思い出して下さればそれで十分でございます」。
この潔さ。見習うべきところがありますね。享年79歳。
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