♪ 都会では空に浮かんで暮らすらし地面がどこに有るかも知らず
今、短歌は若い人に人気のようでブームと言ってもいいくらいなもののようです。俳句ブームの陰で、ケータイでのネット短歌などアプローチも簡単に出来て、添削もしてくれたり他の人の歌に触れる機会も多く、身近なものになっている。結社に入らずに切磋琢磨するのが難しかった時代とは大きく異なり、好きな時に好きなように詠み、即座にリアクションがあるのが身近になっている理由でしょう。
俳句よりも文字数が多いく、自己表現するにはちょうどいいのかもしれない。平易な言葉でストレートに心を表現することの快感とカタルシス効果もある。その上、日本語表現の奥深さと面白さを再認識する機会にもなって、始めてみたら「やめられないとまらない、知的なあそび」ってところでしょうか。コロナ禍で抑圧されている諸々のはけ口と、歌を通して見知らぬ人との交流ができ、心の救いにもなっているのでしょう。
歌を注文する人がたくさんいて、途切れることがないということに驚かされる。1万円出してでもこの人に歌を詠んでもらいたいと思う心境は? 切実なテーマが増えているという時代背景があって、こころの奥底に抱えているものに光を当ててほしいという叫びなのかもしれない。話を聞いてもらうだけで随分心がと軽くなるとは言いますが、一歩踏み込んだところで捕まえていてほしいとの願いなのでしょうか。
木下龍也の歌は、俵万智の歌にも通じるとても分かりやすい、それでいて心をぎゅっと掴まれるような感覚の歌が多い。読み手の立ち位置と実態が浮かび上がってきて、作者に共感している自分を発見する。
俵万智の「未来のサイズ」は読みましたが、彼の歌集は読んだことがなかった。
新鋭短歌シリーズより
つむじ風、ここにあります 菓子パンの袋がそっと教えてくれる
空を買うついでに海も買いました水平線は手に入らない
あの羽は飾りなんだよ重力は天使に関与できないからね
飛び上がり自殺をきっとするだろう人に翼を与えたならば
一本の道をゆくとき風は割れ僕の背中で元に戻った
日だまりのベンチで僕らさくら散る軌道を予測していましたね
針に糸通せぬ父もメトロでは目を閉じたまま東京を縫う
右利きに矯正されたその右で母の遺骨を拾う日が来る
疑問符のような形をした祖母がバックミラーで手を振っている
いくつもの手に撫でられて少年はようやく父の死を理解する
風に背を向けて煙草に火をつける僕の身体はたまに役立つ
雑踏の中でゆっくりしゃがみこみほどけた蝶を生き返らせる
自転車に空気を入れる精密な自分の影に涙しながら
B型の不足を叫ぶ青年が血のいれものとして僕を見る
たくさんの孤独が海を眺めてた等間隔に並ぶ空き缶
夕暮れのゼブラゾーンをビートルズみたいに歩くたったひとりで
ハンカチを落としましたよああこれは僕が鬼だということですか
自販機のひかりまみれのカゲロウが喉の渇きを癒せずにいる
鮭の死を米で包んでまたさらに海苔で包んだあれが食べたい |
「つむじ風、ここにあります 菓子パンの袋がそっと教えてくれる」の歌を東直子氏が解説している。
街の片隅に流れてきた風が、ビルの間でつむじ風となった。菓子パンを包んでいた薄いビニール袋が、その風で旋回している。「つむじ風、ここにあります」という、個人商店の手書き文字でさりげないアピールのようなやさしい口調が胸にしみる。ゴミとして捨てられる運命の菓子パン袋が、誰にも気づかれなかったつむじ風の存在を顕在化させた。世界の片隅で、短歌という小さな器によって自分の存在をこの世に示そうとしている作者自身とも重なる。
俵万智が釈超空賞を受賞したぐらいだから、短歌の世界はここ10年の間にものすごく変わってきた。若い人たちが過去にとらわれずにどんどん新しい歌を詠んで、日本語の良さを再認識してくれることは長いこと生きてきた日本人にとってはとても有り難いことだと思う。
日本語の良さを、定型という枠の中だからこそ、より一層その奥深い豊かさを知ってほしいと思う。“日本語バンザイ、短歌バンザイ!”
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