
♪ 黙々と歩く人らへ挨拶すカフェラテの泡に息吹くごとく
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| 昨日のウォーキングはいつものものとは違っていて、いわゆるウォーキングからはかけ離れたものだった。好奇心の加わった逍遥とか漫歩に近いかのかな。
ウォーキングは目的を持って歩くもので、ほとんどが健康のために歩いている。人によっては歩数や距離、回数などを記録しながらその維持に努めている。ルーチンになっている人もいれば、義務的に自分の課題として実行していたりする。犬の散歩は犬のためだとしながらも、自分のためでもあると思っている。
私の場合は「歩くのが好き」で歩いているというのが一番しっくりくる。もちろん、健康のためという意識も含まれているがウェートで言えば「2:8」でだんぜん「好き」が勝っている。そうでなければ続かない。
煙草を止めたいとか酒を止めたいと言いながらちっとも止められない人が、ウォーキングを始めてもまず長続きしない。「ねばならない」というのは心に負担になる。思っていても出来なければ、なお更自己嫌悪に陥って自信を無くすことになる。
如何に楽しく歩くかというのは、「楽をする」という人間の本質に相反するもので、苦痛でしかないものを反転させなければいけない。
幸いにも私が楽しく歩くことができるようになったのは、ブログと短歌のお蔭かもしれない。歩けば発見があるし出会いもある。頭の中はほぼ空っぽの状態で、歌を詠みながら歩くとか哲学しながら歩くことなんてできない。でも、季節が移りゆく過程の中で自然界が見せてくれるものが面白いし、気付かされることも多い。
心に襞が増えていく感じというか、関心、興味の幅がどんどん広がっていく。その襞の増えていくことを楽しんでいるし、その時の気分で視点や心の動きが一様でないために、見え方も感じ方も変わってくるのも面白い。
昨日のようなものはウォ-キングというより「ただ歩く」もので、言ってみれば散歩に近いのかもしれない。それも、障壁のない歩きやすいところを漫然と歩くのが散歩とすれば、いささか違う。確かに目的というものはなかったが、好奇心というのだけはシッカリあった。
乗代雄介の「旅する練習」という小説は、姪と利根川沿いを歩くというもので、約70キロの道のりを通しで何度も歩いている。平日でも一日に平均3万歩ほど歩いているという。忙しくて歩けない日が多くても、一カ月に8日ほど長距離を歩き、月に30万歩くらい歩くという。
この「旅する練習」という小説を書く前は、小説になるという発想もなくただ利根川の流れを追い、時には遡り、馴染みのない町をあてどなく彷徨っていたという。コロナ禍で緊急事態っ宣言前のこと。
「明確な取材対象を決めていたらあんなに歩くことはなかったし、あんなに多くのものを見つけられなかったと思う」「その道で実際に目にした多くの草木や鳥をはじめとする動物たちを小説の中に書き入れる一方で、これから日常が一変することをまだ知らない人間や街の雰囲気もそれとなく写し取ることにもなった」
歩くことは二足歩行を手に入れた人間の、最も根源的な行為に他ならない。
新聞にこんな本が紹介されていた。
拡大します
「世界中に影響を与え、世界を動かした思想家、哲学者、作家、詩人の思索の多くは、歩くことによって生まれてきました。歩くことは、最もクリエイテブな行為なのです。また素晴らしいアイデアを出す歩き方にも様々なものがあります。
歩くことは、単なる機械的な繰り返しの動作以上のものであり、自由の体験であり、緩慢さの練習であり、孤独と空想を味わい、宇宙空間に体を投じることでもあります。」
「著者のフレデリック・グロが、哲学的な瞑想の連続を読者とともに探索しながら、ギリシア哲学、ドイツ哲学と詩、フランス文学と詩、英文学、現代アメリカ文学等の、著名な文学者、思想家の歩き方について探求します。
ソクラテス、プラトン、ニーチェ、ランボー、ボードレール、ルソー、ソロー、カント、ヘルダーリン、キルケゴール、ワーズワース、プルースト、ネルヴァル、ケルアック、マッカーシーらにとって、歩くことはスポーツではなく、趣味や娯楽でもなく、芸術であり、精神の鍛練、禁欲的な修行でした。
また、ガンジー、キング牧師をはじめ、世界を動かした思想家たちも歩くことがその知恵の源泉でした。
歩くことから生まれた哲学、文学、詩の数々に触れてみましょう。」
さっそく図書館に予約を入れておいた。
「もし購入できなかった時は、他の図書館から借り入れを希望しますか?」
「新刊ですので半年間は外へは出せないので、それ以降になりますがそれでもよろしいですか?」
もちろんです。お願いします。
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