
♪ ウグイスの声なき里に土のない家建ち並び虫の消えゆく
ウグイスが啼かない。鳴いても極たまのことで、しょっちゅう耳にしていたことを思えば異常としか思えない。毎年、この時期になると楽しみにしているあの美しい声が聞こえないのは、染井吉野が姿を消すの同じくらい、いやそれ以上に悲しいことだ。
耳からの情報は、目からのものより「情緒を刺激する」といわれている。
例えば、マーケティングでは、「耳から入る情報はジュースが欲しいと思っていない人に『欲しい』と思わせ、自販機の前に連れて行くことが得意。一方、目から入る情報は、飲み物が『欲しいと思っている人に』対して、特定の商品を買わせるのが得意。」という。
聴覚情報は関心を持たせること、視覚情報は商品を選ばせて買わせることを得意としている、その根本的な違いを生かした戦略が取られている。
「意欲的にさせたいときは、視覚よりも聴覚の方が優位である」ということは、万人の感性に働きかける作用が「聴覚の方」に分があるという事を意味している。
中学生が、通学中、電車に設置されてあるテレビ(消音モード)を見ていて、ふと「今、音がない状態で見ているテレビCMと、家で見る音のあるテレビCMなら家で見るものの方がよく覚えているな。」と考え、本当にそうなのか実証してみたくなった。
自由研究「視覚と聴覚の印象度調査」どちらが印象に残ったか?
 想像とは逆に、聴覚に分があることが分かった。
女子の方がその傾向が強いことも判明。 
大阪教育大学附属天王寺中学校(2013年)
判断するのは視覚からの情報だとしても、耳からの情報の方がはるかに印象に残るということを、ハッキリと証明して見せた。
あの春告げ鳥ウグイスの、遠くから聞こえてくる初鳴きの声は、予期していない瞬間だけに格別なものがある。しばらく耳の入り口でノックのように響いてから、心の奥へとゆっくりと浸み込んいって離れない。
岡田の竹やぶの中に設けてある散策路を歩いていると、頭上の木の上で鳴いたりする。至近距離で聴くウグイスの声は、高額なオペラを聴くよりも何十倍も美しく、姿が見えないだけになおさらエモさが倍化される。まったくの至福の極みに胸が震える。
この山里を歩いていると、ウグイスがあっちでもこっちでも掛け合いで鳴き、小綬鶏が合いの手を入れてくる。
そんなことが今年はないのかと思うと、淋しさを通り越して悲しくなってくる。
そう言えば、杜鵑の啼き声もまだ一度も聞いていない。
と、ここまで書いていたら、曇天から小雨に変わった空に遠くから遠慮がちに聞こえて来た。「鶯だ!」この家の近所で聴くのは今年初めてかも知れない。配牌が悪く自摸も悪くて腐っていたところへ、役牌を自模ったような気分。
かすかな声で鳴いて、サブリミナルCMのごとく消えてしまった。気づいた人が何人いるか。
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そんなことを思っている日々。嫌な記事が目に入ってきた。朝日新聞の天声人語に「世界各地で虫が静かに姿を消している。」と。
花の受粉に欠かせない虫たちが居なくなってしまえば、果物や花が実を付けることが出来なくなり、大変なことになる。そればかりではない。野鳥のたんぱく源である重要な虫が居なくなれば、半分の野鳥種は生きていけなくなるかもしれない。
ウグイスが鳴かないのとどういう因果関係があるか分からないが、直接的な原因でないとしても必ずどこかで繋がっている。
いよいよそんな大変なことが、じわじわと地球上に起こり始めているのかも知れない。
水不足、食糧難、そこへ虫不足から巡り巡って地球破壊へ・・。
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