千の語らい

2008/01/28(月)14:05

小中学校の統廃合

ひとり言(25)

 朝早くから降り出した雨。南国四国の西南地方に住んでいる私にとっては、冬の雨は物悲しく感じられ、心は浮かないままに過ぎていっています。庭の木々・草花も冷たい雨に打たれていますけれど、私の「雨よりも少しの雪の方が良い」と言う思いとは異なり、空からのプレゼントとしてもしかすると喜んでいるかもしれません。   さて、私が住んでいる町は、先年《平成の大合併》を見事に成し遂げ、今年で4年になろうかとしています。納得のいくビジョンを示される事なく、その説明もないままに合併は行われ、今日に至っているのですが、「合併してよかった!」と言う声は余り聞こえないように思われます。 なぜ町民が「良かった」と言えないのか?その理由の一つには《小中学校の統廃合》があるようです。    当事者でない私はその議論を直接に聴いた訳ではありません。統廃合に反対の人の意見を聞き、推進している意見を読んだだけです。そんな中で私が思う事は...。   旧町村時代、既に1町1中学校になっていた所がありました。山と海に囲まれた地域の中で、3学年併せて1桁の生徒数の在校生では学校存続は財政的にも負担は大きく、教育上も芳しい事ではない、と言う理由でスクールバスを導入し、統廃合をしたそうです。遠くは車で40~50分ほどもかかろうかと言う広範囲、登下校には生徒やその家庭もある意味時間的にも負担は大きかったと思います。    町村合併がなされた今、統廃合で揺れる議論・燃える議論を展開しているのですけれど、そこに《真に子供の為になるのは統廃合なのか、存続なのか》と言う議論が見えてきません。      私は小学校は狭い地域にあってしかるべき、と思っています。《児童》と言われる子供達は、狭い地域社会で育てるものと思っています。確かに少人数学級の弊害はあります。2~3人の学級では出来ない大切な教育があることも事実です。けれど、歩いて通えるほどの学校に通うことは、子供の情操教育にとっても良いばかりでなく、地域の住民が知らず知らずの内に地域の子供を育てる...と言う地域共同体のようなものが出来るのです。児童が少なくなった学校では、保育園と合同で運動会が開かれ、そこには地域住民も加われます。児童の親でなくなった住民であっても、参加ができる運動会や学校行事があると言う事は、核家族化の社会の中で生まれてしまったゆとりのない親子関係に心のゆとりを取り戻せると思うのです。血のつながったお祖父ちゃん・お祖母ちゃんが近くにいない子供でも、ご近所の小父ちゃん・小母ちゃんが温かく見守ってくれる、と言う安心感は、子供にはとても大きな心の財産です。安易に統廃合しては地域社会は益々荒廃の一途を辿るでしょう。(地元の学校は全校生徒数1桁ではありません。一応、2桁はあるそうです。そこを踏まえての意見です)   一方、中学校の場合はまた別です。車で40分以内であるならば、学校によっては統廃合は止むを得ないことかとも思えます。全校生徒10名ほどの学校では、共同の作業や勉強にも不都合が生じます。部活動も男女其々1つのクラブが精々で、互いに切磋琢磨...も出来かねます。小さい社会から中ぐらいの社会...そして大きな社会へと出てゆく。そんな緩やかな変化を、田舎だからこそ出来る子育て、あると思うのです。 ただ、そこに生まれる諸問題があります。 送迎が必要になる。 部活動する生徒とそうでない生徒は登下校に時間差が出てくる。 そこに各家庭に負担をもたらしてはいけません。行政は、統廃合によって生じる格差に対して責任を持たねばなりません。スクールバスを大いに活用し、遠方の生徒の送迎に対し責任を持たねばなりません。    子育ては親の責任です。地域社会、国・行政は、子供が生まれた瞬間から社会人となる迄支援し、助成する事。それは義務だと思うのです。     互いに...真摯に意見を述べ合い、議論したならば、必ずや良い結果が生まれると思います。大人の大人の為の議論ではなく、子供の、子供にとって何を成す事が人間を育てると言う事なのか、を、念頭に置きつつ議論して頂きたいと思うこの頃です。 

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