「ゴジラ(1984版)」と、「東京原発」
週末に、DVDを借りてきて、表題の映画を二本観ました。 今回の記事には、ネタバレも含まれていますことをお断りしておきます。「ゴジラ(1984年版)」は何度か観ていますが、3.11後に観るのは初めてでした。 3.11の後に観ると、「絵空事」の感覚は薄れ、「核や放射能の恐怖」がより身近に感じられました。私はゴジラシリーズは全作観ていて、基本的に怪獣映画が好きなのですが、ゴジラシリーズの中でも、「反核」「放射能」「政治」という要素が一番強く滲み出ているのがこの作品だと思います。 田原総一郎氏が参加しているからでしょうが、当時の東西冷戦を背景として、米ソの「核外交」に日本が巻き込まれる様は、怪獣映画のみならず、他の映画でもなかなか観られるものではありません(似たような作品を強いて上げるなら、第二東映が制作した「第三次世界大戦ー41時間の恐怖」でしょうか)。三田村総理大臣を演じる小林圭樹の重厚な演技が、その迫真性に更に重みを加えています。 又、ゴジラが静岡県の井浜原発(浜岡原発がモデル?)を襲う場面も、3.11の後に観ると、 余りにも強烈な印象を残します(放射性物質はゴジラが吸収したという設定になっていますが)。 映像としても、見事なミニチュアで作られた井浜原発・有楽町マリオン・新宿の高層ビル、メーサー戦車とゴジラの戦い等、見所たっぷりです。何より、ゴジラと潜水艦の戦いは、滅多に描かれず、貴重と言って良いでしょう。 残念なのは、「政治」の側面に重きを置き過ぎていて、肝心のゴジラの描写が薄っぺらに感じることです。どうして、東京湾に来るのか、どうして新宿に向かうのかが説明されず、スーパーXのカドミウム弾がタイミングよく撃ち尽くされたり、ゴジラが上陸しているのに新幹線が運行されているのも、ご都合主義に感じます。それに、スーパーXの所属も、どうして「陸上自衛隊」なのか。「航空自衛隊だろう」と突っ込みを入れたくなります(笑)。 東京での核爆発の危機や、まるで3.11を予期していたかのような情報操作の描写、ゴジラの脅威に悩む政治家像など、非常に「濃い」一作です。それだけに、後半の失速は残念ですが、それを差し引いても、ポスト3.11の今だからこそ、放射能や核の恐怖に正面から向き合ったこの作品は、一度は観ることをお勧めします。 そして、もう一本、「東京原発」。 原発を巡る論点・争点を分かり易く盛り込んだ上で、ブラックユーモア溢れた娯楽作に仕上げた手腕は見事としか言いようが有りません。2002年の作品ですから、もう10年前になるのですね。 それにしても、この映画で展開される様々な論点や賛否両論の意見の応酬は、3.11後にも繰り返されていることで、観ていて「この国はちっとも進歩していない」と感じずにはいられませんでした。 原子力安全神話が正しいのなら、東京に原発を作れば良かったのです。「受益者負担」は当然でしょう。電気の恩恵を受けるのなら、コストもリスクも、受益者が負担すれば良いのです。 役所広司演ずる都知事の「原発誘致」の論理を、電力会社や経産省の幹部達は、この時代に、どのように訊くのでしょうか? この映画の終わり近くに、「人間は、過ぎた事はすぐに忘れる」という台詞が有りますが(一言一句同じではないかも知れませんが、そのような意味の台詞です)、それを聞いて、五味川純平著「戦争と人間」第一巻の章扉の前にある一節を思い出しました。「果てしなく流れる歳月は すべて秘めたる物事を明るみにもたらし すべて人びとの知れる事柄をも葬り去る ソフォクレス」(ソフォクレスはソポクレスとも表記される、古代ギリシアの詩人です) 3.11で起きた事はどうでしょう? 物事が明るみに出るのか、それとも、葬り去られるのか。「東京原発」のエンディングを観ながら、暫し考えてしまいました。