1月24日のスピーチと、福島原発かながわ訴訟
1月24日に金曜行動に参加し、国会前でスピーチしました。動画は下記(私は9分50秒/最初のスピーチでした)。2014年1月24日国会正門前スピーチエリア・ノーカット100分 吉良佳子議員と笠井亮議員は25分10秒~(写真上)。 都知事選に立候補している宇都宮健児弁護士は38分40秒~(写真中・下)。 私は、この日は、ファミリーエリアはコールリレーのみの参加とし、久し振りに国会前コーナーに貼り付いていました。 私がスピーチで取り上げている「福島原発かながわ訴訟」について書きます。 先ず、原告団と弁護団のサイトです。福島原発かながわ訴訟原告団ホームページ福島原発被害者支援かながわ弁護団 原告団の会報等はそれぞれのサイトにPDFファイルで掲載されているので、御一読下さい。 私が村田弘(むらた ひろむ/スピーチでは「ひろし」さんと言っています。お詫びして訂正します)さんのお話を聞けたのは、下記の会のお蔭です。1.20(月)福島原発かながわ訴訟原告団長 村田弘さんのお話を聞く会in川崎 ネットで調べていて、たまたま見つけられたのは幸運でした。被災した方・避難された方のお話をじっくり聞ける機会はそう多くは無いので、仕事が終わってから会場に向かいました。 24日のスピーチでは割愛しましたが、村田さんが仰っていたのは、「被災者一人一人のの状況は、数字では言えない」ということでした。今の政府・行政のやり方と、被災者・避難者の置かれている状況の違いは、この一文に象徴されていると思います。規制庁や規制委員会の会議を傍聴していると、まさに「数字で片付けよう」としているのがよく分かります。出てくるのは書類ばかり・数字ばかりです。 辛かったであろうご自身の体験を淡々と、時にはユーモアも交えて語る村田さんと、「新たな原子力ムラの再構築」にひた走る規制委員会の面々とを比較すると、失礼ながら、同じ人間なのかなとの思いを禁じ得ません。私が傍聴を繰り返しているから、そう思うのかも知れませんが。 スピーチで紹介したように、横浜地裁第101号法廷で行われた第一回口頭弁論は、私も傍聴しました。午前中に第40回原子力規制委員会を傍聴したので、1日に2回も傍聴したのは初めてでした。(横浜地裁のサイト) 東電株主訴訟の傍聴で、東京地裁に何度か行っていますから、同じような感覚でいましたが、東京に比べるとのんびりした感じの裁判所でした。建物はモダンで、金属探知機は無し、傍聴者も中で待つことが出来ました。ソファも多く、ラウンジの自動販売機が80円と安かったのは嬉しかったです(笑)。傍聴には、金曜行動国会前でお馴染みの方も来ておられて、名刺を交換しました。写真は、日本大通りから撮影した横浜地裁の正面出入り口。 傍聴席は68席でしたが、希望者は98名との事で、抽選になりました。東京地裁の抽選はコンピュータでランダムにされ、「当選番号」が貼り出されるのですが、横浜地裁は籤引きのような棒を引いての抽選でした。 幸いにも「当選」したので、101号法廷の傍聴席の最前列に座りました(正確には前から2列目。本当の最前列は報道席でした)。原告席も傍聴席もぎっしりで、被告席の国・東電側も20人以上は来ているようでした。 冒頭、テレビの撮影が入りました。意外だったのは、裁判長入廷の際に、東京地裁のように「起立」を求められなかったことです。心の準備をしていた私としては、拍子抜けしました。東京地裁は随分と威圧的なのですね。 口頭弁論は主に原告側の発言で、被告側からの発言は、「書面の提出の確認」が殆どでした。この点は東電株主訴訟と変りません。あちらも、元取締役と補助参加人である東電は口頭での説明は殆どありません。 原告側代理人(弁護士)3人が訴状の主要な点を説明した後、村田団長を含む3人の原告が意見陳述を行いましたが、3人とも、泣きながらの陳述で、傍聴席からも啜り泣きが聞こえていました。 この種の訴訟で原告本人の陳述が、しかも3人も認められることは異例だそうで、更に異例な事に、裁判官正面の証言台を使うことが認められ、3人とも裁判官と向き合っての陳述でした。傍聴席からは背中しか見えませんでしたが、声の調子と、小刻みに震える肩を見ただけで、陳述している方の心情、察するに余りありました。 当日は、陳述の要旨が書面で配布されたのですが、弁護団からは「内容の紹介は構わないが、そのものをコピーするのは止めて欲しい」との依頼がありましたので、3人の内、原告Aさん(中学生の娘さんを持つシングルマザー)の陳述内容をここで御紹介します。「私は、2011年3月15日に、小学6年生だった娘を連れて神奈川県に避難してきた者です。避難した私は、とにかく仕事を見付けて、娘と新しい生活を始めようとしましたが、私が避難先で頑張るほど、娘と私の気持ちは擦れ違いが大きくなっていきました。 娘は『原発直ったら帰れるんでしょう?』と毎日のように尋ね、泣いていました。そして『どうして私だけ逃げるの?』と何度も私を責めました。私は、娘の為に避難したことを理解して貰えず、とても悲しかったです。 娘は神奈川県内の中学校に入学しましたが、すぐに福島に帰るという思いからか学校に馴染もうとせず、帰宅すると、毎日のように福島の友達と電話やメールをしていました。 そして、10月のある日、娘が突然いなくなったのです。あとで分かったことですが、12歳の娘は、1人で福島へ行ったのです。娘は1人で夜行バスに乗り、福島へ向かいました。娘が1人で福島へ行ったのは、この時だけではありません。『私は、福島の皆を見捨てたりしない』。娘はそう言いました。1人で大きな責任を背負っているようでした。 私は、避難した判断の正しさに自信が持てなくなり、娘との衝突や、避難先でのストレスで鬱病になりました。最近まで仕事もできませんでした。 こんな私達に、東電は『避難区域外からの自主避難者』という理由で、殆ど補償をしてくれません。でも、避難区域というのは国が勝手に線引きしたことです。 避難したことは、私の我儘なのでしょうか。私は、この苦しい思いを、生活を、我慢しなければいけないのでしょうか。お願いです。私達の、福島県での幸せだった生活を返して下さい。それが叶わないのであれば、せめて国と東電は確りと責任を取って下さい」 私はこの陳述を聞きながら、その場から逃げ出したくなるような思いでした。3人とも、予定の時間を超過していたようですが、裁判官も被告代理人も止めようとせず、時刻ばかりを気にしていた書記官も原告の陳述が始まったら、まっすぐに原告を見つめていました。被告側代理人の中にも、目頭を押さえていた人がいたようです。 村田さん以外の方は立ったままで、私は途中で「泣き崩れるのではないか」と心配でしたが、3人とも、途中でつかえることもなく、泣きながらも最後まで自分の体験と思いを話しておられました。立派だと思います。 この後、近くの会議室で報告会がありましたが、NHKやTV神奈川も取材に来ており、原告や支援者100人前後がつめかけて、立ち見でした。弁護人の説明と質疑応答も丁寧で、私は支援する会の結成式まで参加して、サポーターとして登録手続きをしました(報告会と支援する会結成式の写真は下に掲載)。 この訴訟の第二回口頭弁論は3月20日(木)15時~、同じく101号法廷です。時間のある方は傍聴をお願い致します。 今後、弁論の度に、1人ずつ、原告本人も意見陳述なさるそうです。 現在、被災者が国・東電を相手取って損害賠償と責任の明確化を求めている訴訟は全国で14有り(併合審理含む)、原告人数は約5200名とのこと。更に、岡山でも同種訴訟が準備されているそうです。 各種裁判や規制委員会・規制庁の傍聴は止められません。自分で見て・聞いて・調べることです。報道機関の悪口を言う暇があれば、自分で行動しましょう。 本日の金曜行動も参加予定です。 政治の仕事は活かすこと! 切り捨て政治は許しちゃいけない! 被災者切り捨て絶対反対!報告会の様子。左から、弁護団事務局長の黒澤知弘弁護士、着席しているのが同団長の水地啓子弁護士。 支援する会結成式の様子。マイクを持っているのは原告団団長の村田弘さん。写真下は、「月桃の花」歌舞団の歌と演奏(同歌舞団は31日の金曜行動にも参加して頂きました)。※ 2/4 写真を追加し、一部文章を追記。