福島原発かながわ訴訟・第18回口頭弁論での意見陳述を紹介
1月20日に金曜行動に参加し、希望のエリアと議事堂前でスピーチしました。 希望のエリアでは東海再処理施設のリスクの詳細と、表題のかながわ訴訟での原告側意見陳述の内容を、議事堂前では、東海再処理施設に絞って話しました。2017.1.20国会前希望のエリア (ツイキャス録画/私は27分30秒~/音声と映像にずれがあります) 東海再処理施設の情報は、こちらの記事にまとめています。 希望のエリアには、浪江町の希望の牧場の吉澤さんも参加され、トップバッターのスピーチをフルに聞きました。私の後は山添拓参議院議員(東京選挙区/日本共産党)で、かながわ訴訟・意見陳述の内容を聞いて頂けました。 福島原発かながわ訴訟の第18回口頭弁論(2016年11月18日、横浜地裁101号法廷)での、原告番号19-1さん、小学生の息子さんを持つお母さんの意見陳述の概要は下記。====概要、ここから==== 私は、神奈川で生まれ育ち、横浜市で結婚し、2004年に長男が生まれました。 2009年に夫が実家の家業を継ぐことになったので、夫の実家である福島で生活するようになりました。私は、看護師として病院に勤務しました。この職場は人間関係も良く、気持ち良く仕事のできる職場でした。 長男の幼稚園の送迎は専用バスがあり、夫の実家の目の前で停まってくれました。共働きの私達夫婦には、とても有難い環境でした。 こうした生活の中、2011年3月、来月には長男が小学校に入学するというときに、大震災と原発事故が起きたのです。 私達の住んでいた所は、避難指示区域には指定されませんでしたが、勤務先の病院ではヨウ素剤が用意されました。ヨウ素剤は40歳以下の職員の分しかないとのことでした。私は40歳以下でしたが、家族の分が無いのに自分だけ服用することを考えると、不安や苦しい気持ちで一杯になりました。又、病院自体の避難計画までもが検討され始めていました。 夫が、福島県の放射能窓口に問い合わせたところ、周辺の草木からは基準値の何千倍もの放射性ヨウ素が出ていると伝えられました。テレビでは「外出を控え、外から帰ったら体を洗って下さい」等と言っていましたが、水さえ出ない状態でした。 私は、職業柄、被曝を避けるべく、細心の注意を払うように言われていました。レントゲン等の放射線関係の検査の際に、防護服の着用方法を注意されたことも有ります。当時の自宅周辺は、そのレントゲン室より線量が高い状態でした。 私は、長男を家から出さず、換気扇も回しませんでした。給水所の水ではなく、ペットボトル入りのお茶を飲ませ、食事も保存食を食べさせました。 勤務先の病院でも、若年層を中心に大勢が避難した為、スタッフが大幅に減りました。家族が避難した為に、退院できなくなった患者さんも何人もいました。ある医師からは「家族を避難させるから、貴方も避難した方が良い」と直接言われました。 3月15日午前に、3回目の水素爆発が起こった時、私は、長男だけでも神奈川の実家に避難させようと決めました。本当は家族全員で避難したかったのですが、夫は養父母やご近所に水を配るなどの面倒を見ていたので、一緒の避難は出来ませんでした。 長男を避難させた後は、私だけは福島に戻ろうとしましたが、長男が離れなかったことと、道が通行止めとなっていたこともあって、直ぐには戻れませんでした。避難後はよく眠れない日々が続きました。その年の11月までは私の実家で生活し、その後は神奈川県内の借り上げ住宅に長男と住んでいます。 避難した後の3月末、勤めていた病院で退職の手続きをした際に、避難したことについて、他の職員らの前で謝罪させられました。他の職員からは「子どもがいる人は他にもいるのよ」「逃げる所があって良いわね」等の嫌味を言われ、挨拶しても無視されるなど、嫌がらせを受けました。仲の良かった同僚達とも音信が途絶え、避難をきっかけに関係が切れてしまいました。 2011年5月からは、神奈川県内の病院で働き始めましたが、勤務条件は大幅に悪くなりました。夜勤の際には、長男の面倒は母に見て貰い、負担をかけていました。 2011年4月に小学校に入学した長男は、2年生の時に発達障害と診断され、苛めを受け、友達も出来ず、不登校となりました。私は、病院での勤務をパートタイムに切り替えて対応しましたが、それでも欠勤が増えてしまい、神奈川県内の病院は2016年の初めに退職せざるを得ませんでした。 発災から約4年半の間、夫は福島の実家で暮らしていましたが、長男が父親に会えるのは月に一回程度でした。2015年の10月からは、長男の精神的安定を図る為にも、夫は神奈川県で生活し、実家の仕事がある時に福島に帰っています。神奈川県内で仕事を探してますが、年齢の関係も有って、なかなか見つかりません。 長男は福島に帰るのは怖いと言っています。 私も、福島に帰る気はしません。ホットスポットの存在等、長男が自然の中で遊ぶ環境にも不安が有ります。又、長男は本来なら受ける必要のない甲状腺検査を今後も受け続けなければなりません。 私達の住んでいた所の線量は高いままで元に戻るとは思えません。 又、少しずつ学校に通えるようになってきた長男の環境を変えるのも不安です。住居や仕事の問題も有ります。 原発事故で、私達の生活はすっかり変わってしまいました。最も辛かったのが長男の事です。長男は夫の実家や親戚にとても可愛がられて育ちましたが、そのような親戚付き合いも無くなり、父親とすら離れ離れの生活にしてしまいました。本当に寂しい思いをしたと思います。 私自身、働きながら一人で長男を育てていかなければならず、生活はとても大変でした。 長男の発達障害についても、福島にいれば、周囲に友人も多く、夫の実家や親戚にも面倒を見て貰えました。事故が無ければ、長男の状況も今と全く違っていたのではないかと思っています。 この事故で、私達は、生活環境も、仕事も、人間関係も、将来設計も、全てが変わってしまい、先の見えない不安の中で毎日を過ごしています。特に今は、2017年3月で借り上げ住宅の提供が打ち切られてしまうので、その後の住居の事が心配です。早く、安心して毎日を過ごせるようになりたいです。====意見陳述概要、ここまで==== 福島原発かながわ訴訟の第19回口頭弁論は、25日・水曜日14時から、横浜地裁101号法廷で行われます(みなとみらい線。日本大通り駅目の前。横浜スタジアムの近く)。傍聴抽選の列は13時半から作られる予定です。私も傍聴予定です。春橋哲史(ツイッターアカウント:haruhasiSF)