避難住宅追い出し訴訟(仮称)は、7月18日に結審。判決は10月7日14時
東京地裁で行われていた「避難住宅追い出し訴訟[仮称]」(※)は、2024年7月18日・木曜10時半から開始された弁論で結審しました。※ フクイチ(東京電力・福島第一原子力発電所)事故により避難した鴨下祐也さん(福島原発被害東京訴訟・原告団長)を東京都が提訴したもので、「原告が東京都、被告が避難者」の訴訟 この訴訟に関しては、当ブログ6月10日付けの記事で書いているので、繰り返しません。(リンク)●東京地裁で、核災害避難者に対する「追い出し訴訟」が係争中 7月18日の結審期日では、被告である鴨下祐也さんが抗癌剤投与を受けている身体で出廷し、裁判長が椅子を勧めるのを断って、626号法廷中央の証言台の前で立ったまま淀みの無い意見陳述を行いました。 当日の様子は、当記事の後半に書きます。先ずは、鴨下さんの意見陳述(報告集会で配布されたもの)の全文を掲載します(読み易さの為、段落や漢字を一部変更)。====鴨下祐也さんの結審での意見陳述、ここから==== 本日は意見陳述の貴重な機会を与えて頂き、お礼申し上げます。更に、私の身体の都合によって先月に予定されていた期日を、今日に延期して下さったことを心より感謝申し上げます。 2ヶ月前、私は進行性の大腸癌を切除する手術を受けました。巨大化した癌は、既に腸閉塞を起こしかけており、私は入院直後から、高熱と酷い炎症で危険な状態に陥りました。幸い、経験豊富な外科部長の機転で、何とか無事に手術を乗り越え、今日、ここに立つことができましたが、これは幸運な偶然が重なった結果に過ぎません。 5月の初めに自分が癌に侵されていることを知った時、最初に感じたことは「遂に自分にも番が回ってきたか」という落胆の思いでした。 原発事故被害を訴える集団訴訟は全国に30時件程度あると聞きますが、それを率いている原告代表の中には、癌と闘いながら国・東電と闘っている人が少なくありません。私もまた、福島原発事故被害者東京訴訟の原告団長として、この10年余り、運動の先頭に立って声を上げてきましたが、共に戦う全国の仲間達が陰で抗癌剤治療を受けながら、その重い身体を引きずって声を上げ続けている姿に、胸を痛めてきました。その多くが、私と同じ避難指示区域外からの所謂自主避難者や、福島に残った人達です。私の避難元である福島県いわき市で訴訟を率いていた方も、まさに今月から癌と闘い始めたと聞きます。 そんな仲間達から聞く情報には、もう一つ嫌な共通点が有ります。発症者が癌の家系ではない事、そして本来稀である筈の悪性度の高い癌の人が多い点です。私自身、それに当てはまります。主治医は私のがんの遺伝子変異の結果を見て、急に治療の方針を変えました。従来、転移や成長が穏やかだと言われる大腸癌でありながら、私の癌は例外的に悪性度の高い変異で、この癌が転移を始めたら、施しようがなくなる可能性が高いのだそうです。より強い抗癌剤治療に変更する、と語る主治医からは、手術直後の楽観的な表情が消えていました。 また主治医は、摘出した私の癌について、「この癌は10年以上前に出来たものだ」と語りました。10年以上前。その言葉に、13年前に起きた原発事故と、当時自分が暮らしていた福島県いわき市の夥しい放射能汚染を回想せずにはいられませんでした。 今、私の周りには、一般的に予後が良いと言われる甲状腺癌や乳癌、大腸癌でありながら、例外的に悪性度が高く、転移が早く、苦しい抗癌剤治療を余儀なくされている方が少なくありません。避難指示が出されなかった汚染地域での低線量被曝、それによる度重なる遺伝子へのダメージが、癌への遺伝子変異の比率に影響を与えているのではないか。工学博士として、そして一人の科学者として、遺伝子や放射性物質を扱ってきた経験や知識が、これらの現象が偶然でないことを導くのです。 一方、医療が劇的に進歩した現代に於いても、癌の治療の主軸は早期発見による外科治療です。転移後の癌に関しては、癌組織だけを特異的に攻撃できる化学療法はほぼ無い為、投与された抗癌剤は、癌である無しに関わらず患者の細胞を攻撃し、患者は耐え難い副作用と長期間闘い続ける事になります。にも拘らず、その効果は良くても30~40%程度。半分も効きません。結果、残酷な副作用の苦しみが終る時が、緩和ケアへの移行、即ち治療の断念となるケースの方が多いのが、今の医療の限界です。自分が癌になって、改めてそんな残酷な現実を突きつけられ、これが年端のいかない子どもや若者達にも起きている福島の現状を、この国が見て見ぬふりをしていることに、今、改めて怒りを覚えています。 例え低い確率だったとしても、これだけ残酷で取り返しのつかない病を齎すことが明らかになっている放射性物質から、逃げたいと願っている人達を、この国や自治体は守らねばならなかった筈です。しかし、国や東京都がしたことは、その真逆でした。 私はいわき市に避難指示が出なかったばかりに、被曝を回避することが出来ませんでした。妻子だけを逃がし、それを仕送りで支えるのが精一杯でした。2013年からは署名を集め、国と福島県と東京都にお願いに行き、放射能の害がある内は避難を継続させてくれるよう、話し合いを続けてきました。そして国が避難住宅の提供を打ち切った2017年以降も、東京都はすぐには私達を追い出さず、毎年の話し合いに応じてくれていました。しかし2021年に国が東京都に損害金を請求するようになってから、状況は一転しました。そして私に対して住宅の明け渡しを求めるこの裁判を起こされました。 私は今も疑問に思い続けていることが有ります。何故、私は東京都と争わなければならないのでしょうか? 私達が住んでいたのは、国が管理する国家公務員宿舎です。国が避難住宅として提供することを決め、また国が被害者の懇願を無視して一方的にその提供を打ち切ったことで起きた問題です。若しも国が私達避難者に返還を求めるというなら、逆に私達は国に、家や街を汚染された被害に対する損害(賠償)を求めます。ですが、私達と東京都の間には、そのような争いは無い筈です。私達との話し合いに応じてくれていた都の担当者は、繰り返し「裁判は起こさないし、仮に起こすことになったとしても勝つつもりはない」と、私達に言い続けていました。私は今も、その担当者の言葉こそが、都の本心であると信じています。 被曝が齎す病は、癌だけではありません。今、私の避難元である福島県いわき市では、急性心筋梗塞で亡くなる人の割合が全国平均の2倍を超えています。これはチェルノブイリ事故後にも多発したことが広く知られている病です。人口30万人を超えるいわき市で、死因の割合にこれだけの変化が出るということは、相当な数の方が急性心筋梗塞で亡くなられていることを意味します。市の抱く危機感は強く、最近ではテレビでも繰り返し注意喚起が報じられています。 又、福島県全体でも急性心筋梗塞死は全国トップで、脳血管障害を始めとした、幾つかの生活習慣病も非常に増加していると報じられています。 13年経ってなお、本に射なら飲食禁止である筈の放射線管理区域の基準を上回る放射能汚染のもとで日常生活を続けることによる低線量被曝が、人体にとって安全でないことは、寧ろ科学的には明らかです。しかしながら、この非人道的で大規模な生体実験は、13年を過ぎて今もなお継続中なのです。 今年1月、いわき市の自宅の庭の土壌測定をしてみましたが、依然として4万㏃/㎡の、放射線管理区域の基準を越えていました。平時であれば子どもが立ち入れる筈も無く、放射線業務従事者であっても飲食が禁止される放射能汚染の中で、私は妻子と共に日常生活を再開するなど、考えられません。寧ろ、そのように夥しく汚染されてしまった地からの避難が正当と認められず、まるで被害が無いかのように扱われ、このような裁判を起こされていることに、今、改めて、怒りと悲しみを覚えます。 多くの公害訴訟に於いて、国が病と原因との因果関係を認めるまでには、長い年月の争いが有りました。今、私達が実感している多くの健康被害を政府が認めていないとしても、遺伝子を直接傷つける放射性物質が有害であることに、争いは無い筈です。 福島原発事故由来の放射能汚染が元通りになるまで生きられる人間は、今、この場には一人もいません。つまり、今生きている私達は誰一人、その被害の全てを見届けることはできないのです。ですから、その間の被害を最小に留める為にも、放射能汚染からの避難を求める人達から、家を奪わないで下さい。 この裁判では、私だけが被告として訴えられましたが、今も怯えて暮らしている避難者達は皆、この裁判の行方を、固唾を飲んで見守っています。 裁判長、どうか私達を、この歪みと理不尽から救ってください。 有難うございました。2024年7月18日 東京地裁第31民事部====鴨下さんの意見陳述、ここまで====当日の様子・開廷まで 当日の様子は報告集会の事も含めて「民の声新聞」の鈴木博喜氏が書いているので、当記事では重複しない範囲で書きます。 尚、「」の発言は全て要旨です。 当ブログの写真の無断転載・利用はご遠慮下さい。(リンク)●【原発避難者から住まいを奪うな】「避難求める人から家を奪わないで」大腸ガン闘病中の鴨下祐也さんが意見陳述 判決は10月7日~鴨下さん追い出し訴訟、東京地裁で結審(7月21日) 7月18日は、門前前集会が9時半頃から始められ、鴨下ご夫妻と長男さんが話されました。主に話したのは配偶者さんで、鴨下さん本人は短いスピーチで東京地裁の建物に入られました。抗癌剤治療中で、長時間立っていたり話すことはできないとのことです。↓ 門前集会で話す鴨下さん。手前の帽子をかぶっている女性が配偶者さん(鴨下美和さん) 当日は直射日光ではなかったのですが蒸し暑かったです。門前集会は見る見る内に人が増え、壁際に並んでいるだけで汗が噴き出すような感じだったので、私は、申し訳ないのですがスピーチを聞き終わる前に10時前には東京地裁に入りました。手荷物を持っていなかったので、入館手続きは短く済みました。 626号法廷の前には、既に幾人かが並んでいました。 10時15分に入廷可能となり、私は最前列に座れました。 40席弱だったと思われる傍聴席はあっという間に満席になり(私の左隣は鴨下さんの長男さんでした)、座れない方達が法廷後方の壁際にズラリと並び、それでも入り切れない方達が廊下に溢れていました。 10時19分に鴨下祐也さんが入廷し、傍聴席を抜けて被告席に向かう際に、室内から大きな拍手が起こりました(開廷中ではないので、私も拍手しました)。鴨下さんは傍聴席に向き直り、大きく一礼してから、被告席に着席しました。 10時27分に大須賀寛之裁判長、木村太郎裁判官、山中優太裁判官の3人が入室しました。大須賀裁判長は、裁判官席に座るのとほぼ同時に「当法廷は立ち見を認めていません。座れない方達は外でお待ち下さい」と、立っている方達に退出を命じました。 誰かが「立ち見を認めて下さい」と抗議とも野次ともとれぬ発言をしましたが、「立ち見は認めていません」の繰り返しでした。立っていた人達は、ここで速やかに退出しました。 室内が座っている人達だけになると、大須賀裁判長は「予定の時刻より少し早いですが、揃っているので、初めます」と開廷を宣告しました。10時29分でした。当日の様子・意見陳述 10時29分に開廷すると、裁判ではお馴染みの光景でもある、提出書面の確認等が行われました。 鴨下さんの意見陳述は10時半からでした。 大須賀裁判長は、鴨下さんに「お身体は大丈夫ですか? 座っても良いですよ」と声をかけていましたが、鴨下さんは「立ったままで行う」旨を回答し、法廷中央の証言台の前にすっくと立って話し始めました。 本職が教員だけあって、鴨下さんの意見陳述は早すぎず、遅すぎず、聞き取り易い話し方でした。 陳述が「東京都と争う理由が無い」「都の担当者は」と東京都に言及する場面では、左側の原告席に顔を向けていました。 原告席には3人が座っていました。傍聴席に最も近い人はノートPCに入力しながら聞いていて、始終俯き加減、裁判官席に最も近い人は視線を伏せがちでした。真ん中に座っている人は私は初めて見たのですが、鴨下さんを真っすぐ見つめ、片時も視線を外さずに真剣に聞いているようでした。東京都の担当者の、せめてもの誠意の表われでしょうか? 鴨下さんは、姿勢を崩さず、言葉も乱れず、凡そ10分に渡って淀みなく話し続けました。10時40分に陳述が終わり、鴨下さんが裁判官席に向かって頭を下げると、傍聴席から拍手が起きました。 大須賀裁判長は拍手を制止すると、鴨下さんが被告席に戻ってから、「双方、他に提出すべきもの、主張すべきことはありますか?」とお決まりの質問を投げかけ、原告・被告共に無いことを確認してから、「弁論終結」を宣告し、次いで、判決言い渡しを「10月7日・14時・606号法廷」と指定しました。当日の様子・報告集会 報告集会は、裁判所隣の弁護士会館で行われました。 ここの会議室も立ち見となり、床に座り込んでいる人もいました。 鴨下祐也さんは体調の関係も有り、短時間の発言でした。↓ 報告集会にて。マイクを持っているのが鴨下祐也さん 主に鴨下美和さんと、中野弁護士が発言と説明を担当しました。後半の質疑では次々と手が上がり、質疑応答の中で、かながわ訴訟・原告団長でもある村田さんが、他の地域の「追い出し訴訟」の状況を説明しました。 11時から始まった集会は12時過ぎに終了し、とてもコンパクトでした。 集会には斉藤とも子さんも参加していました。裁判所前の門前集会から来ておられたのですが、一言も発言することなく引き上げられていました(私は、弁護士会館から出る際にご挨拶しました)。斉藤さんは、7月11日に行われた関西訴訟の本人尋問も傍聴されたとのこと。頭が下がります。健康の回復と、勝訴を~現代版「水晶の夜」を許すな~ ここからは私の所感と考えです。 鴨下さんは、福島原発被害東京訴訟原告団の中では、名前と顔を出して活動できる数少ない方です。原告団長として、事実上の広報担当として走り回り、自らを顧みる余裕が無かったのでしょう。どうかこれからは、ご自身のことを最優先して、療養と回復に努めて欲しいです。 鴨下さんとは、金曜行動のスピーチでご一緒することが多く、集会後の立ち話や、懇親会でも何度かお話しさせて頂きました。 鴨下さんの話や説明は丁寧で、どんなことでも感情的にならず(私のような短気ではない)、多くを教えて貰いました。「避難者への住宅提供は『支援』ではない。原発事故を起こした責任として、住むところを確保し、提供するのは当然であり、寧ろ義務」「『自主避難』という言葉は実態を表していない。『区域外避難』や『自力避難』と言うべき」との説明は、説得力が有り、私がオフサイトの問題を考える際の大きな指針の一つとなっています(他の被災者・避難者の方からも教えられたことは多く有ります。ここでは鴨下さんの話のみ取り上げています)。 2023年11月22日の「だまっちゃおれん訴訟」の判決日は、懇親会の後、新幹線で帰路につくとき、自由席の窓際に座って、名古屋駅のホームで見送る私にゆっくりと手を振って下さったのを覚えています(私は、鴨下さんの乗車した次の新幹線の指定席を予約済みでした)。 個人としては、鴨下さんの健康の回復を願います。 この国の有権者としては、司法制度を使って核災害の被害者に追い出しをかけたり、損害金を請求する行政(国政・地方行政含めて)のやり方に怒り、憂慮しています。鴨下さんだけのことではありません。司法と行政が一体となって被害者に損害賠償を請求するのは、第三帝国のクリスタルナハト(水晶の夜/※)に相当する暴挙であり、人権蹂躙です。 行政は全員に対して生活が成り立つように機能しなければなりません。司法は基本的人権や個人の尊厳を守る為に機能しなくてはなりません。※ 1938年11月9~10日にドイツ国内で発生した大規模な反ユダヤ暴動。ドイツ政府が家族を追放したことに怒ったポーランド系ユダヤ人のヘルシェル・グリュンシュパンが、11月7日にパリのドイツ大使館でエルンスト・フォム・ラート三等書記官を銃撃(11月9日に死亡)。この事件がドイツ国内で報道されると、ヨーゼフ・ゲッベルス国民啓蒙宣伝大臣の煽るような演説もあり、突撃隊・ヒトラーユーゲント・一般市民等がユダヤ人を襲撃し、ユダヤ人の経営する店舗やシナゴーグ(ユダヤ教の教会)を破壊した。警察も消防も事態を放置していた。 クリスタルナハト(水晶の夜)とは、破壊されたショーウィンドーのガラス片が地上でキラキラと光っていたことから名づけられた。 この「官製暴動」による殺人・暴行・器物損壊の罪は問われなかった。 暴動後、ドイツの保険会社が物損による保険金を支払ずに済むように、ドイツ政府は「(暴動と破壊の)責任はユダヤ人自身に有る」との理由で「ユダヤ人コミュニティに10億ライヒスマルクの罰金・店舗修復は経営者の個人責任」等を命令し、保険金が支払われた場合も没収した。 この暴動後、ユダヤ人の国外脱出人数が増加した。(主な出典のリンク)●クリスタル・ナハト●水晶の夜 核災害の被害者を追い出し、家賃分を請求するのは、まさに「ナチスのやり方」であり、このようなことが許されれば、日本が第三帝国のような末路を迎えるのではないかと危惧します。 追い出し訴訟は、何としても、東京都敗訴・鴨下さん勝訴の判決にしたいものです。春橋哲史(ツイッターアカウント:haruhasiSF)