三権一体での、核発電利活用と核災害被害者の声封じ
これはメモ代わりの記事です。 今後、削除して別記事を書いたり、追記する可能性が有ります。 メモ代わりのものですから、制度や法令の詳細な説明やリンクは省きました。 岸田文雄首相は、今年9月に予定されている自民党総裁選に立候補せず、新総裁の選出に合わせて内閣総辞職を行うことを表明しました。 岸田氏が首相を辞めても、内閣総理大臣として実行したことは法令や制度として存続し、現在及び将来の国民の生活や人生に影響を与え続けます。 岸田首相が原発関係で決定した最も大きなことは「原発の60年超運転を可能とする法改定」でしょう。 2022年冒頭に原発利活用の方針を表明してから、岸田首相は、自分の持てる権限のほぼ全てを「原発を最大限、利活用する」法制度の整備に投入していたように見えます。 原発利活用策を検討する為の会議を首相直属として特別に設置し(GX会議)、原子力規制委員長を指名する権限(原子力規制委員会設置法では、規制委員長と規制委員は内閣総理大臣が国会の同意を得て任命します)を使って規制委発足以来携わってきた更田氏を任期切れで外して山中氏に交代させました。 並行して、関係法令の改定案づくりを進め、最初の表明から1年半も経たない内に国会に束ね法案を提出しました(国会に議案を提出するのは憲法に定められた内閣総理大臣の権限です)。経産省・規制委員会は行政組織です。行政の長としての首相の権限と意向は絶大でしょう。実際、関係法令の改定案は1年足らずで作り上げられました。凄いスビートです。 日本国憲法では、国権の最高機関は国会であり、首相の指名や議案の審議・採決は、国会自らの判断で行わなくてはなりません。ですが、岸田氏を首相に指名した政権与党が多数を占め、その政権与党の党首・幹部が党議拘束で議員個々人の自由な判断を縛っているのですから、総理総裁が提出した議案が否決されることは有り得ません(現実に「束ね法案」は2023年の通常国会で可決・成立しました)。 国会は、実質的に「国権の最高機関」として機能しておらず、行政府のトップ(内閣総理大臣)の意向の追認機関のようです。この国の最高機関は、内閣総理大臣なのでしょうか。 私は、規制委員会の傍聴を通じて「あれよあれよ」という間に、原発を最大限利活用することを目的とした法令改定が進んでいくのを見ながら、「三権分立」の意味を嫌でも考えさせられました。 国権の最高機関である立法府が、行政の長の意向で動くのは、日本国憲法違反なのではないでしょうか。 行政にしても、勤めているのは公務員です。全体の奉仕者です。特定の利害関係者や特定の業界の為に法令改定案を作成したり、運用を変更するのは、これまた憲法違反なのではないでしょうか。 三権分立(司法・立法・行政)は、近代国家の原則です。 その内、行政と立法が、岸田首相の打ち出した「原発を最大限、利活用する」方針に沿って全力且つ素早く動きました。 では、三権の残る一つである司法はどのように動いているのでしょうか?「司法は独立」している筈です。本当に独立しているでしょうか? 三権の動きの関連性を確認する為に作成したのが、下記の年表です(無断転載・引用はご遠慮下さい)。 まとめてみると、2022年1月に岸田首相が「原発の最大限の利活用を目指す」旨を表明してから、三権全てが同じ方向に動いているように見えます。(本文は年表の下に続きます)「原発の60年超運転を可能とする法令の整備」は、2023年10月に実質的に完了しました。これは、行政と立法の二人三脚です。 では、司法はどうなのか。2022年6月17日に、最高裁が4件の集団訴訟で「フクイチ核災害に関する国の賠償責任を認めない」判決を出して以降、後続の集団訴訟は全件が原告(つまり、核災害の被害者)の敗訴・棄却です。 2022年6月の最高裁判決から24年4月の新潟訴訟控訴審まで、国の賠償責任を認めない・又は原告の上告を棄却する決定が、12件連続しています。この間、1年10ヶ月です。平均して2ヶ月弱に1件のペースで、救済を求める被害者の声が否定・却下されているのです。 私は、時系列表で整理してみた結果にゾッとしました。 行政と立法は原発の最大限の利活用に向けた法令の整備を進め、司法は核災害の被害者の最大の訴え(=国の賠償責任)を否定し続ける。 司法・立法・行政の三権が全て同じ方向を向き、その方向に合わない意見を切り捨てる・聞かないということが罷り通るとしたら、三権分立とは一体、何でしょうか。「司法が独立している」と言えるでしょうか? 日本国憲法では、裁判官は良心に従って独立して職務を行うことになっていますが、平均2ヶ月弱に一件のペースで被害者の訴えが全件否定されているのが現状です。これで「独立している」と言えるのでしょうか? 時系列表には含めませんでしたが、集団訴訟の他にも、フクイチ核災害の避難者が避難住宅からの退去を求められたり、遅延損害金の支払いを求められる訴訟が複数件起きています。行政が被害者である住人を訴えるという異常なもので、今のところ、住人側が勝訴(=行政の訴えが退けられる)した例はありません。 フクイチ核災害の避難者への帰還圧力や、放射能汚染を無かったことにする或いは矮小化する動きは前々から有りましたが、今起きていることは、その総仕上げのように見えます。 本来は国民全体の為に存在すべき三権が一体となって同じ方向を向いたら、どのようなことになるか。私は、行き着き先がドイツ第三帝国のような国ではないかと危惧します。 ドイツ第三帝国では、ゲシュタポが逮捕・拘束した人の家族が、被拘束者の釈放を求めて、司法に訴えたことがあります。その際、ドイツの裁判所は、この訴えを却下しました。「国民が支持する総統が指導する民族国家に於いて、司法と行政が対立してはならない。裁判所はこの問題に介入しない。申請人が取り得る手段は、ゲシュタポ長官への訴えである」というのが理由です(ハインツ・ヘーネ著「髑髏の結社・SSの歴史」で読んだ内容です。引用元の頁数の記載は割愛します)。 フクイチ核災害関係の集団訴訟はまだまだ続いており、時間的に近いところでは今年10月に広島地裁(ひろしま訴訟)で、12月に大阪高裁(京都訴訟・控訴審)で判決が言い渡されることになっています。 その他の訴訟で結審が見えてきているものも有ります。それらの判決は、どうなるでしょうか。 2022年1月以降に鮮明になりつつある流れを放置すれば、この国は、特定の業界や利害関係者が政党・政治家と一体となり、憲法やその他の法令に基づく権限が自らの利害の為だけに用いられる、巨大な利権国家もどきになるでしょう。巨大な利害組織に国が内部から乗っ取られるようなものです。「フクイチ核災害の被害者のことは、自分には関係ない」のでありません。分立している筈の三権が揃って同じ方向を向き、しかもその方向が「全体の中ではごく一部の利害に関わる」ものなのですから、看過すべきではありません。国のあらゆる組織や権限は、将来世代を含む国民全体の為に有るのです。特定の関係者の利益を図る為のものではありません。 第三帝国はボロボロになって滅び、国民や国内外に想像を絶する多くの犠牲が生じました。 この国を第三帝国にしてはいけません。 何をすればいいのか。 個人レベルでは、裁判にせよ、行政にせよ、国会(議会)にせよ、それらを監視し、「おかしなことはおかしい」と言い続けることしかないでしょう。 少なくとも、「取り組まない理由・やらない理由」を探さない事ですね。 個人では出来ることは限られますが、個人で何もかも背負うことはできませんし、その必要も有りません。この国には、約1億500万人の有権者がいます。それぞれが得意分野で、出来ることを積み上げていけば、1億500万通りの取り組みとなり、声となります。(メモ代わりなので、まとまりがなく、小見出しも無いことをお詫びします)春橋哲史(Xアカウント:haruhasiSF)