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年始から読み始めた福島原発事故調の中間報告書を、やっと読み終えました。 ネットで、報道等を確認したところ、「個人の責任に踏み込んでいない」「菅前総理や枝野元官房長官等、重要人物のヒアリングが行われていない。不十分だ」との批評がなされていますが、私は、この中間報告書について、安易な批判は慎むべきと考えます。 先ず、何よりも踏まえるべきは、報告書の2~4頁に記述されている8つの基本方針でしょう。「責任追及は目的としない」「残念ながら起きてしまった事故から学び尽くしたい」等の断りが入っています。又、「現時点までの調査・検証により取りまとめが可能な範囲で公表」(6頁)したという点も、留意すべきです。この報告書は、8つの基本方針に則った上での、「可能な範囲」での報告なのです。「不十分」なのは当然ですし、基本方針に照らせば、「個人への追及」がなされないのは当然でしょう。 中間報告書が公表された後、大新聞の社説は一斉にこの件を取り上げていましたが、社説を書いている「新聞社の偉い人達」は総計507頁にも及ぶこの報告書を、全て読んだのでしょうか?(このページ数は、添付の資料や略語表を含みません) 12月19日時点での委員会のヒアリングは900時間・456名(1人当たり約1.97時間)に上っており、その内容を整理して507頁にまとめる作業だけでも、委員の皆さんの苦労と努力には頭を下げるしか有りません。しかも、まだ通過点です。 この調査の対象は、近現代史上、最大最悪の「複合災害」です。どんな個人も、どんな組織も、行ったことのない調査をしているのですから、「中間報告」の段階では、批判するのではなく、情報の収集や提供に協力するくらいの姿勢が、寧ろ当たり前だと思います。 要望を出すべきは出し、協力を惜しまず、夏頃に提出される筈の最終報告書を見てみましょう。批判すべき点が有れば、そこで批判すれば良いのです。 ところで、私は、中間報告書の最後、「10 おわりに」と題された文章に特に目が行きました。この部分は、政治家・官僚・実業界の、「従来、方針を決定してきた人達」に向けた、委員会の意志の表れではないかと感じました。全文を引用します。 「引用ここから 福島第一原発及び福島第二原発における事故に関わる原因の調査と検証に基づく政府への全般的な提言は、来夏頃に予定している最終報告において行うが、この中間報告においても問題点の指摘と解析を踏まえ、本章の3から7においていくつかの個別の提言を行っている。また、8では新しい原子力安全規制機関が備えるべき事柄について5 項目にわたって提言し、そして9ではやや大所高所から、原子力災害の再発防止のためのパラダイムの転換の必要を提起している。 福島第一原発で平成23 年3 月11 日に深刻な原子力災害が発生した直後、関係者から、「想定外の事象が起こった。」との発言が相次いだ。「想定外」とは、「このような事象が起こることを考えていなかった。」との意味であろう。しかし、多くの国民はこの言葉を聞いたとき、「考えていなかった。」という意味だけではなく、「想定できないことが起こったのだから仕方がない。自分たちには責任がない。」という意味を持つ発言と受け取り、責任逃れの発言だとの印象を持った。当事者たちは「想定外」というが、このような厳しい状況を想定することが関係者の責務であったはずだ、と考えたのである。 「想定」と「想定外」とは一体どのような含意を持った言葉だろうか。 「想定する」とは、考える範囲と考えない範囲を決め、境界を設定することである。人間は物事を考えるとき、考える範囲を決めないときちんとものを考えることができない。そこで、物事を考えようとするとき、どの範囲までを考えることにするかという境界を設定する。この境界を決めた後は、その境界の内部について詳細に考えを進め、考えを作り上げていく。 それでは、境界はどのようにして設定されるのであろうか。境界は様々な制約条件の影響を受けて定まる。経済的な制約はもとより、社会的制約、歴史的制約、地域的制約等の様々な制約があり、その制約を満たすように境界が設定されていく。これらの制約は、明示的に示されているものばかりではない。どこにも文言として明示はされていない、関係者間の暗黙の前提という形をとる制約も存在するということに注意が必要である。 一方、境界の外側については「考えない」と決めたことになるので、考えなくなる。いったん想定が行われると、どのような制約の下にその境界が作られたのかが消えてしまう。ことが起こった後で見えるのは、この想定と想定外との境界だけである。境界がどのようにして決まったかを明らかにしなければ、事故原因の真の要因の摘出はできない。 今回の事故では、例えば非常に大きな津波が来るとか、長時間に及ぶ全交流電源の喪失ということは十分に確率が低いことと考えられ、想定外の事柄と扱われた。そのことを無責任と感じた国民は多いが、大事なことは、なぜ「想定外」ということが起こったかである。 原子力発電は本質的にエネルギー密度が高く、一たび失敗や事故が起こると、かつて人間が経験したことがないような大災害に発展し得る危険性がある。しかし、そのことを口にすることは難しく、関係者は、人間が制御できない可能性がある技術であることを、国民に明らかにせずに物事を考えようとした。それが端的に表れているのが「原子力は安全である。」という言葉である。一旦原子力は安全であると言ったときから、原子力の危 何かを計画、立案、実行するとき、想定なしにこれらを行うことはできない。したがって、想定すること自体は必ずやらなければならない。しかし、それと同時に、想定以外のことがあり得ることを認識すべきである。たとえどんなに発生の確率が低い事象であっても、「あり得ることは起こる。」と考えるべきである。発生確率が低いからといって、無視していいわけではない。起こり得ることを考えず、現実にそれが起こったときに、確率が低かったから仕方がないと考えるのは適切な対応ではない。確率が低い場合でも、もし起きたら取り返しのつかない事態が起きる場合には、そのような事態にならない対応を考えるべきである。今回の事故は、我々に対して、「想定外」の事柄にどのように対応すべきかについて重要な教訓を示している。 今回の原子力災害は、まだ終わってはいない。現在も、長期間にわたる避難生活を強いられ、あるいは、放射能汚染による被害に苦しんでいる多くの人々がいる。被ばくによる健康への不安、空気・土壌・水の汚染への不安、食の安全への不安を抱いている多くの人々がいる。こうしたことを銘記しながら、平成24 年夏頃に予定している最終報告に向けて、当委員会は更に調査・検証を続けていく。 引用ここまで」 中間報告書に「おわりに」という項目が設けられているのも不自然な気がしますし、「想定外」という文言について、中高生に諭しているかのような文章も、奇異に思えます。中間報告書の大半は、「~時~分」という細かな時刻まで追求した、「事実の解明・事実の叙述」に当てられているにも関わらず、突然、「ものの考え方」に関する文章に変わっているのです(※1)。 何度か読み返してみたのですが、私には、「おわりに」の文章が「方針を決定してきた人達」に対する委員会の意志表示としか思えませんでした。 もう一つ奇妙なのは、一二を争う重要人物である枝野前官房長官や菅前総理のヒアリングを行っていない点です(※2)。 この点は、委員会が「政治的紛争に巻き込まれないことを最優先しているから」だと考えます。2人のヒアリングを早目に行うと、中間報告に盛り込まざるをえなくなり、そうなった場合、中間報告書や調査活動が、民主党批判・菅内閣批判の道具に堕すかも知れません。委員会は、それを回避しようとしたのではないでしょうか? 深読みし過ぎの点もあるかも知れませんが、中間報告書の全文を読んで、こんなことを考えました。 ※1/2012年2月15日に修正 修正前⇒ 中間報告書に「おわりに」という項目が設けられているのも不自然な気がしますし、「想定外」という文言について、中高生に諭しているかのような「頭の体操」的な文章も、奇異に思えます。中間報告書の大半は、「~時~分」という細かな時刻まで追求した、「事実の解明・事実の叙述」に当てられているのです。それが、突然、トーンが変わっています。
※2/2012年2月15日に修正 枝野「元」官房長官・菅「元」総理をそれぞれ「前」に修正 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2012.02.15 19:48:35
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