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元SF小説家・春橋哲史のブログ(フクイチ核災害は継続中)

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2012.01.25
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カテゴリ:カテゴリ未分類

 最近は、ここ数年無かったような寒さが続いていますね。毎朝、起きるのに精神力を振り絞る毎日です。

 さて、脱原発世界会議の件ですが、一点、補足を。

 スウェーデンでは、電力小売り会社が120社以上、有るそうです。元売り(卸)の数は分かりませんが、質問しておけば良かったですね。

「世界のヒバクシャ」や、広河隆一氏・島田恵氏の写真展も観てきましたが、恐らく全身全霊を以て撮影しているであろう写真を前にしながら、以前から感じていた「ある種の違和感」を改めて覚えました。

(本題に入る前に、幾つかリンクをご紹介しておきます。

島田恵写真展ホームページ http://www.bekkoame.ne.jp/~take-waya/site/

DAYS JAPAN http://www.daysjapan.net/ )

 先ず、ここでお断りしておきたいのが、私は基本的に「新聞・雑誌の紙媒体には触れない」人間という事です。

 どうしてそうなったのかと、その源流を辿って行けば、ケーブルテレビを導入してCNNやBBCを観るようになったことに突き当たります。

 当時、私は、「週刊金曜日」や「ニューズウィーク 日本版」を読んでいましたが、紙媒体のメデイアから急速に離れていったきっかけは、やはり、CS放送を観るようになったことだと言えます。

 当時は自分でも、自分の中の変化が上手く説明できなかったのですが、「戦争報道」(武田徹・著 筑摩書房 2003年2月10日第一刷)という本に、当時の私の感覚をズバリと説明している文章が有りました。

 引用ここから====================
 アジアプレスは1987年に野中章弘によって設立された。
 (中略)アジアを主にカバーするフォトジャーナリストとして、1979年から仕事をしていた野中は、フリーランスの立場で活動する限界を感じ始めていたという。
 (中略)
  そんな限界を決定的に思い知らされたのがマルコスが追放された1986年のフィリピン2月革命だった。この時、野中は取材に出ておらず、日本でTVを通じて事件を見ていた。そしてフリーランスのフォト・ジャーナリストによる写真報道の時代が完全に終わったと感じたという。
 「友人のジャーナリスト、長倉洋海や今枝弘一が取材していましたが、彼らの写真を雑誌で見ても、もうTVで見てしまったものを見せられている既視感を覚えた」
 (中略)
  TV局の分厚い取材力が事件のかなりの部分をさらって取材し、先に報じてしまう。フォト・ジャーナリストが如何に踏ん張って現場の最前線に張り付いたとしてもスクープはできなくなっていた。
  そんな状況を見て、野中はジャーナリストとしての活動スタイルを変えようとする。(中略)
  そしてアジアプレスを設立。一種の通信社的な機能を持つ拠点を用意すれば、ジャーナリストが個々にメディアへ売り込む労力がかなり省ける。(後略)
============================引用ここまで

 BBCやCNNにチャンネルを合わせれば、ほぼ毎時、世界のニュースに触れられます。内戦や爆破事件の現場からの中継は当たり前のように有り、難民の悲惨な映像・悲惨な話も遠慮呵責なしに伝えられます。

 日々、そのような報道に触れていると、1週間に1回しか配達されない雑誌、しかも、ページ数が限られている中で掲載される写真の印象が薄くなるのは当然でしょう。写真も、キャプションも、大半が既に知っていることで、自分にとっては、新しい知識としての意味すら有りませんから、観なくなる・読まなくなるのは必然だったと思います。

 今では、私は、紙媒体は一切購読しておらず、ケーブルテレビ(正確にはCS放送)とインターネットから、情報を得、分析記事を読んでいます。この感覚に慣れると、新聞や雑誌を購読していたのが自分でも信じられず、とても、あの頃に戻ろうとは思いません。

 リアルタイムで、しかも、動画の情報が入手できるのに、どうしてわざわざ、写真で観ないといけないのか。

 脱原発世界会議の写真展も、結局はそういう事なのです。既に、ネットや、他の媒体で知っていることを、改めて見せられても、やはり、「既視感」であり、私には「違和感」です。

 もう一つ、脱原発世界会議で様々な写真展を周って気になったのが、殆どの写真が白黒で、しかも、くどいようなキャプションが付いていた事です。

 写真というのは、瞬間を切り取るものでしょう。更に、数多く撮った中から、写真展に出すものを選んでいる筈です。どの瞬間を切り取るか、どの写真を選ぶかは、全て、撮影者の主観であり、その「選び方」で充分に、撮影者の主観は伝わります。

 にも関わらず、実際には色がついている光景をわざわざ白黒にしたり、キャプションも、写っているもの(人)だけを書けば良いものを、それ以上の説明を付しています。観る者に撮影者の主観を押し付けているようで、私は不愉快ですらありました。見た様を淡々と伝えられないのでしょうか? 動画ではなく、写真ですから、「瞬間を切り取る」というだけでも、主観が剥き出しになるのです。

 島田氏は、六ヶ所村に泊まり込んで撮影していますし、広河氏は自身が被曝することを顧みずにチェルノブイリへ出向いています。その説明だけで、撮影者がどういう思いで撮影をしているのか、十分すぎるほど、伝わります。過剰なキャプションを付したり、わざわざ白黒にしても、あざとさが際立つけだけです。「事実を伝える」というより、「主観を伝えたい」と言っているように感じるのです。

 取り組んでいる方達は熱心なのでしょうし、私も、放射性物質という「治らない病気」をばら撒く核技術は、人の道に反していると思っていますが、それにしても、「運動型・主張型」のフォトジャーナリストと呼ばれる人達の、主観の押し付けには、「何か違うなあ」という違和感を拭えません(当人達には、決して、「押し付けている」意図はないでしょう)。

 因みに、「疫病惑星・・・」にはSINという報道機関が登場しますが、「戦争報道」を読んで以来、報道という要素を物語に取り込めないだろうかと考えた結果が、SINです。設定は二転三転しましたが、結局はあのような形になりました(ネタバレになるので、これ以上は書きませんが[笑])。






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Last updated  2012.01.26 00:22:26
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