グルメ幸福論~美食と人生~
紅影です。僕は最近、散歩ついでにブックオフに立ち寄り、漫画を1冊読んで帰ってくるのが習慣になっています。読むのはもっぱら「美味しんぼ」。これは、かの堀江社長の愛読書でもあるそうで、美食倶楽部の海原雄山とその息子である主人公の山岡の争いは、見るものを心地良く魅了し、様々な課題を読者に突きつける。それはもう、料理というテーマだけにはとどまらないものだと思う。どこまでも「本物の味」を追い求める彼らの姿は、人生の真実を追い求める求道者のそれとダブって見える。皆さんもよくご存知の通り、ストーリーも非常に面白い。その中で、「至高のメニュー」と「究極のメニュー」の闘いというものがある。至高も究極も意味上はほとんど同じと言って良いが、彼らは料理の一つ一つに様々な工夫や意図を施し、どうやったら素材が最高に活きるか、食べる人を感動させられるかに、全てを賭ける。また、食を通じて亀裂の入っていた人間関係が回復する場面があったりして、まさに料理の真髄は、料理そのものにあらず、作り手の心意気や真心にかかってくることを痛感する。僕はまだ20巻程度までしか読んでいないのだが、つくづく、美食の追及は、●人生の幸福の追求と同じなのではないかと思えてきた。その辺について今日は述べていこうと思う。例えば、目の前にある一杯の水、これを最高に美味しく飲むにはどうしたらいいかを考えてみよう。ジュースが好きな人ならば、単純に自分の大好物の果物の絞り汁を入れて飲むだろう。更に、酒が好きならばワインにしたりビールにしたりもするだろう。ここでの美味しさというのは非常に相対的なものだと思う。人それぞれの好みによって「至高、究極の水」というのは変わってくる。また、自分の原体験、例えばお袋の味だったり故郷の味、これもまた、美味しさの基準は人それぞれということを示す一例だ。つまり、「至高や究極」というのは、厳密に言えば、●十人十色、人の数だけ存在すると言えるだろう。より多くの人が美味しいと思うものが究極だ、というような「多数決的」な考え方もあるだろうが、それでは、万人に当てはまるような普遍的な「究極」とは言えないだろう。よって、そこから導き出せる結論は、「至高、究極の幸福」というものがあるのだとすれば、それはすなわち、人それぞれ違う形であり、固定的でただ一つの何か、ではないということになる。それでは、彼らのやっている究極のメニュー作りというのは無意味な作業なのだろうか。答えは否だ。世の中には様々な概念があって、例えば「究極」と似た性質のものに「永遠」や「真実」、「理想」や「愛」といったものがある。それらは常に、我々の頭の中に描き出された空想であり、幻想と言ってもいいものだ。抽象概念とは常にそういったものである。しかし、それらには大きな意味がある。それは、人間の扱い方次第によっては大きな意味を持つのだ。概念や言語、あるいはイメージといったものに至るまで、それらは全て、我々の●手段であり、決して目的ではない。文明や科学の進歩もまた、目的ではなくて手段なのだ。そこを履き違えて、人類は大きな失敗をし、そして教訓を得てきた。僕自信、常々「理想」とは自分の目的を描き出すことだと考えていたが、そうではなかった。それは、自分の中での「手段」を明確にする作業であったのだ。「自分には哲学がある、思想がある」と主張してみたところで、で、だからどうしたの?結局、君は社会で何が出来るの?と世間的には思われてしまう。その背景には、社会と個人との人生における「目的」の相違がある。社会の目的は「結果」だ。世間や社会といったものでは、常に結果を出すことが全てである。そういった社会の価値基準に照らし合わせてみれば、「幸福=達成」という図式が帰納されるだろう。しかし、僕の目的はあくまで「充実」なのである。物事を要領よくショートカットして、ポコンと簡単に結果を出すのはあまり性に合わない。結果は出すに越したことはないが、それよりも自分の全力を出し切れたかどうかを重要視する。また、それにより自分の中にどのような感情が生まれたか、どのような感覚を持ったか、どのような新しい可能性が開けたか、そいういったことを重要視する。あくまで、外的なものではなく内的なものにこだわるのだ。このブログもまた、僕にとっては「表現すること」の充実を目指した手段の一つだ。すなわち、ブログ運営は決して僕の目的にはなりえず、常に利用すべき手段というスタンスを取っている。(よって、自分の中で波が来てない時は休むこともある、と言っておこう^^)。また、これは俗に言う「インサイド・アウト」内発的動機付けの重要性とも微妙に近似する。外的なものや手段に固執せず、時空の充実への手段として活用していくスタンスだ。話が脱線した。「至高、究極の水」の話だった。ところで、料理を絶対的に美味しくする為に、古来から言い伝えられてきた普遍的な方法が一つだけ存在する。それが、「美味いものを食べたかったら腹を空かせろ」という教えだ。先の「美味しい水」の例で言えば、サハラ砂漠のど真ん中で、喉の乾きに飢えている連中に、東京のカルキ臭い水道水を与えても、それは彼らにとって、「究極の水」になり得る可能性がある。また、その応用編として、死ぬほど不味い料理を散々食べさせられた後に、いつも食べている平凡な料理を食べても、それは格段に美味く感じるはずだ。これが人生で言うところの「不幸」や「悲しみ」の大きなメリットだ。夜空の星の輝きを最も鮮やかにするのが「暗闇」であるように、病気をして初めて健康体であることの喜びが分かるように、人生の「幸福」と「不幸」は常に表裏一体の関係性にある。コンピューターは0か1かで全てを判断する。ロボットの判断では、料理は美味いか不味いかの○×方式に陥る。一方の人間には、そこには納まりきらない、一般には「心」と呼ばれるような、何らかの複雑かつ高度な機能が備わっている。そこでは、0と1の間には小数点以下の見えない無限の数字が隠されていて、それが人生の旨みとなり、僕が「充実」と呼ぶものになる。さてここで、今までの話を総合して、僕から読者の皆さんに、究極のカレーライスをご提案しよう。落語では「店良し、客良し、世間良し」という言葉があるらしいのだが、それを応用して、「店・客・世間」の3つの観点からポイントを羅列していく。それぞれが「店=主体」「客=客体」「世間=社会」に対応する。これら全ての条件が揃えば、かなりのレベルで美味しいと感じるはずだ。<店>・手に入る限りで最も辛いルーから甘いルーまでが取り揃えられている。・食材の究極的充実(にんじん、じゃがいも、等)。・料理人の心技体の究極的充実。(→お客をもてなす心、自己研鑽、プロ魂、職人気質、自信、体調管理、等)<客>・美味いカレー、不味いカレーをこれでもかってくらい食べた経験がある。・極限状態の飢餓感がある。・心は至って寛容であり料理を味わう準備が万端。<世間>・世間の価値観に合致する。(→みんなが美味しいと言っていれば美味しく感じる)・世間の価値観に不一致(→あまのじゃくな人は世間の逆を行くことを喜ぶ)・旬の季節の合致。・社会構造、システム的に安全で高品質な食材ルートの確保及び構築。もちろん、以上のことは人生における比喩的表現になっている。そのことを踏まえたうえで理解して頂きたい。そして僕は、幸福をこう定義したいと思う。「幸福とは、今現在の瞬間を各々の価値観によって究極的に充実させること」注意すべきなのは、究極の美食を求めると、それは美味を得るかわりに失ってしまうものも多いということだ。例えば、今までは美味しいと思っていたものが突然、不味くなってしまったりする。一段階上の美味的「喜び」を得た一方で、失うものもまたあるということだ。幸福についても全く同じことが言えるだろう。「幸福は、追えば追うほど遠くなる」と言われる所以だ。それ故に、老子は「足るを知る者は富む」と言った。しかし僕は、「ほどほど」ほどつまらないものはないと思う。「ほどほど」ほど充実していないものはないと思う。「ほどほど」ほど幸福から遠いものはないと思う。だから僕は、美味という「喜び」の方を選ぶ。「全ては無である」「人生は苦である」仏教は語った。だからどうしたというのか。そんなことを言い出したら「有」でもあるし「楽」でもある。いかようにも言うことが出来る。もう一度、僕が「競争原理の再検討2」で述べた、<幸福の好循環サイクル>を思い出して欲しい。<安らぎ>→<退屈> ↑ ↓<消耗>←<楽しみ>これが、僕の考える「充実=幸福」の基本サイクルだ。<楽しみ>のところはジェットコースターの上り下りをイメージすれば分かり易いが、「人生楽ありゃ苦もあるさ」なのだ。両方含めて「楽しみ」と僕は定義する。「つまらない=詰まらない」人生ではなく、「詰まっている」人生、これを僕は目指してゆく。失敗したって良い、間違えたっていい。自分が最も充実していると感じられることを、僕はこれからもやっていこうと思う。何故我々は生まれてきたのか。その答えがあるとすれば、それはたぶん、僕らは、●ただ遊びに来たんじゃないかということだ。そうとしか、今の僕には考えられない。輪廻転生では「人間はこの世に勉強しに来たんだ」とか言うけど、それは遊びのほんの一側面であり、全てではないと思う。それに、そんなカシコマッタ理由で「生まれたい」と思う奴なんてそうそういないんじゃないか。たぶんみんな、ワクワクドキドキしながら楽しみにして生まれてきたんだと思う。それこそ遊びに行く感覚で。だから、赤ちゃんの産声は、「嬉し泣き」だ。僕はそう信じている。だから僕は、「詰まっている」人生、最高に充実した人生を歩んでやろうと、そう願う。人生は喜びと悲しみが一杯詰まっている、だから素晴らしい。最近は、「つまんない」と呟く人たちが多いけれど、人生はつまらなくなんてない。それは全部その人の心がけ次第だろう。最初の方で僕は、「まさに料理の真髄は、料理そのものにあらず、作り手の心意気や真心にかかってくることを痛感する。」ということを述べました。そしてそう、まさに僕ら一人一人が、●人生という無限の食材の料理人なのだと思うのです。その為の僕なりの着眼点は大まかにですが、すでにここまで述べてきました。さぁ、遊び心満載で、自分の思う通りの料理を続けていきましょう。そして、あなたはこれから、どんな「究極のメニュー」を作りたいですか?P.S.最近ちょっと甘ったるいことばっか書いていたんで、ここいらでちょっと引き締めてみました。緊張と緩和☆←1日1クリックで、何の成長もない紅影を応援しよう!!現在順位不明。