138767 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

3度の飯より音楽好き♪

3度の飯より音楽好き♪

ロリンズ・ディスコグラフィー

Sonny Rollins Discography



さきころ



ソニー・ロリンズのディスコグラフィーです。

年代、レーベル別に並べてみました。


・・・さて、ディスコグラフィーの前に、ロリンズのプロフィールをご紹介します。

Sonny Rollins 本名 Theodore Walter Rollins

1930年9月7日、ニューヨーク市ハーレムにて誕生。
(注1929年説もあるが、これは、ロリンズが若い頃に就労許可証を得るために
年齢を1歳ごまかしたことから定説になったもので、1930年が正しいらしい)

父は趣味でクラリネットを演奏し、ヴァージン諸島出身の母に連れられ、
カリプソのダンスパーティーに行った。
兄はヴァイオリニスト、姉は教会で歌ったり演奏しており、
叔父はブルース中心にたくさんのレコードを所有。
近くにはサヴォイ・ボールルームや、コットンクラブがあり
子供の頃はその店の近くをよく通った。(中には入れなかった)
しかし、子供でも入れるアポロシアターを毎週のように訪れ、
ライオネル・ハンプトンや、デューク・エリントン、カウント・ベイシーの演奏を夢中になって聴いていた。

こんな風に音楽に囲まれた環境で育つが、9歳の時に習わせられたピアノは
野球の楽しさには勝てなかったらしく、すぐにやめてしまう。
その後、いとこの家で目にしたアルトサックスに魅せられ、
11歳の時に母に中古のアルトを買ってもらい、練習を開始。

15歳の時にチャーリー・パーカーの「ココ」を初めて聴くが、
その凄さがわかるのはしばらくしてからのことで、
やがて、関心がコールマン・ホーキンスに向けられるようになる。
新品のテナー・サックスを母にせがんで入手したのは16歳の時のこと。

当時住んでいたシュガーヒルには、ホーキンスを始め著名なミュージシャンの他に、
ミュージシャンを目指していたジャッキー・マクリーンやケニー・ドリューが住んでおり、
(マクリーンはロリンズの高校の後輩だとか)
しばしば集まっては演奏したり、ライブを聴きに行ったりしていた。
このころ様々なミュージシャンを聞き込みながら、次第に自分のスタイルを身につけてゆく。
しかし、このころのロリンズはまだ自らのプレイを持っていなかった。
やがて、セロニアス・モンク、バド・パウエル、マイルス・デイビスたちとの
出会いによってミュージシャンとしての自覚を持つようになった。

高校を卒業したロリンズは、年齢をひとつごまかし、就労許可を得てプロミュージシャンとなる。
あるクラブのジャム・セッションに参加していたある日、マイルスと出会い、
ロリンズの演奏を聴いたマイルスは、自分のグループへの加入を要請し、
やがてロリンズはマイルスのグループに加わった。

1949年1月、バブス・ゴンザレスのキャピトル録音にまねかれ、これが初レコーディングとなる。
続いて、J.Jジョンソン、のふたつのレコーディングに参加し、
5月のサヴォイでのレコーディングでは、ロリンズの作品がはじめて取り上げられた。
タイトルは Audoban といい、当時出演していたNYのクラブ
「Audoban Ballroom」にちなんで名付けられた。
更に同年、バド・パウエルのブルーノートでのレコーディングに参加、
アルバム The Amazing Bud Powell Vol1 でみずみずしい演奏を繰り広げた。

しかし、同年秋頃から、ロリンズはパーカーの影響からヘロインに手を出すようになる。
その年の暮れには、シカゴに住むあるドラマーと共演するためにNYを離れるが、
戻ってくると麻薬所持で逮捕され、8ヶ月も入獄する羽目となった。
出所するとマイルスから声がかかり、1951年のマイルスのプレステッジでのセッションに参加。
このセッションの終わりに、ロリンズの初リーダー録音が実現。
タイトルは I Know
(このセッションでは、次の仕事のためにスタジオを一足先に出ていた
ジョン・ルイスの代わりにマイルスがピアノを弾いている。)

この後もマイルスグループの一員として活動を続け、同年10月にもレコーディングに参加。
12月にはマイルスの推薦で、プレステッジと契約を交わし、はじめて正式なリーダーセッションを
持つに至り、このときの演奏は、53年のMJQとの共演と共に、
「ソニー・ロリンズ・ウィズ・モダン・ジャズ・カルテット」というアルバムとして記録される。

明けて1952年、仮釈放違反で再び獄中にあったロリンズは
出所後マイルス・デイビスのグループに加わり、ジャッキー・マクリーンを加えたセクステットの一員として活躍する。
その間、マイルスがマクリーンの代わりにジョン・コルトレーンを起用し、
テナーバトルが見られることもあったという。
(テナー・マッドネスを彷彿とさせる)
1953年1月、マイルスとの3度目のレコーディングが、チャーリー・パーカーを加えて行われた。
この時パーカーはテナーを演奏、このセッションはアルバム「コレクターズ・アイテム」として
パーカーの死後の1956年に日の目を見た。
同年10月には、セロニアス・モンクとの初めてのレコーディングが実現した。

明けて54年、アート・ファーマーのプレステッジセッションを経て
マイルスとのレコーディングでは、「エアジン」「オレオ」「ドキシー」の3曲が採用される。
(これがかの有名な「Bag’s Groove」である)
ロリンズはミュージシャンやジャズファンから注目を集めるようになるが、
その一方で、麻薬癖にまだ悩んでおり、自ら麻薬更正施設に入所し、まる1年間ジャズシーンから姿を消してしまう。
更正施設にいたのは、4ヶ月半ほどであるが、この後はシカゴに住み、
守衛や運搬人の仕事をしながら練習に励んでいた。
マイルスからはクインテットへの参加を要請されるが、ロリンズはこれを固辞してしまう。
(ちなみに、ロリンズの代わりにクインテットに加わったのは、ジョン・コルトレーンである)

・・・1955年11月、クリフォード・ブラウン=マックス・ローチ・クインテットがツアーでシカゴを訪れ、
レギュラーメンバーの代わりに参加を要請されたロリンズは、これを受けついにシーンに復帰。
ニューヨークに戻る同グループに同行し、レギュラーメンバーとなった。

ブラウン=ローチ・クインテットのメンバーとして活動する傍ら、
プレステッジに自己のリーダー作をレコーディング、
「ワークタイム」「ソニー・ロリンズ・プラス・フォー」「テナー・マッドネス」の諸作は、いずれ劣らぬ傑作である。
そして、1956年6月22日、最高傑作と誉れの高い「サキソフォン・コロッサス」録音。
まさにロリンズの絶頂期であった。(つづく)

home


© Rakuten Group, Inc.