マイヤ・イソラについて。
先日、図書館で見つけて借りた本。マリメッコで最も活躍したデザイナー、マイヤ・イソラ。その生涯、デザイナーとしての仕事と功績、そしてマリメッコで発表した約500もの作品が掲載されており、とても読みごたえがありました。10年前に発行された本なのでこの本を読まれたことのある方はたくさんおられると思いますが、みなさん、どういう感想をお持ちでしょうか。私は。・・・マイヤの男性遍歴がとにかく気になって仕方なかったです。笑そこ?えっ、そこなの??ですよね。だってーすっごいなーって思っちゃったんですー(*´з`)ここからは興味のある方だけ、どうぞ♡(超長文です)1927年生まれのマイヤ・イソラ。1945年7月、18歳で19歳年上の男性と結婚し、高校を中退します。翌年の1月、娘のクリスティーナを出産。Σ(゚∀゚)まず、ここで「デキちゃった婚」が私の脳裏に浮上。笑その後、マイヤは大学をあきらめヘルシンキの美術工芸中央学校に進学します。すでに夫婦生活は破たんしていて一緒に暮らしていません。Σ(゚∀゚;)当然、「子育てはどうなってんの?」と疑問がわきます。1948年の夏、マイヤは生まれて初めてフィンランドを出て美術の勉強のためノルウェーへ。そして、その年の秋、離婚します。(;´∀`)そりゃそうなるね・・・という感想。笑1949年、マイヤは学校で開かれたコンテストの審査員を通してマリメッコの創業者であるアルミ・ラティアと出会います。このあたりからマリメッコとの関係が始まります。で、びっくりなことにまたまた学生の立場で結婚しちゃうマイヤ。1949年、22歳で今度は11歳年上の男性と結婚。互いに離婚歴のある2人はヨーロッパ中を放浪者のように旅し、マイヤはこの男性から芸術に関する様々な事を学んだそう。1952年には2人でマイホームを建てますが、1955年に離婚する際にはこの家のせいで裁判が長引いたそうな・・・。(その後、この家はマイヤのアトリエになります)ちなみに、離婚理由は「夫が芸術家、妻はその助手、という立場に反発を感じていたから」\(゜ロ\)(/ロ゜)/地味で物静かな印象だったとされるマイヤですが実はそうでもないのかも。笑さて、マリメッコとの関係がより緊密になってきたのは1956年のこと。マイヤはいよいよマリメッコのデザイナーとして活躍し始めます。(途中、一度マリメッコと勤務スタイルでモメて退社しますがフリーランスという立場で活動することに落ち着きます。)うーん、かなりの自由人?懲りないのか、また結婚しちゃう。笑1959年2月、仕事関係の男性と子連れ再婚します。相手の男性には二人の息子がいました。これまで娘クリスティーナとは暮らしていなかったマイヤ、1960年暮れごろからやっと一緒に暮らし始めます。(ただし、夏の間だけで、冬は何度か会うだけ・・・)そんなわけで娘クリスティーナも10代で結婚、出産します。1964年、マイヤは36歳でおばあちゃんになります。それでもこの母娘はとても仲が良かったというからスゴイ。クリスティーナは回想しています。「私が幼い時、マイヤは理想的なお手本だった。青春期には友達だったし、仲間だった。姉妹のようにも見られた。そして成人してからは、師であり、仕事仲間でもあった。」(´Д`)・・・親は無くとも子は育つって感じですね・・・。話を戻します。やがてマイヤは結婚生活に嫌気がさします。「どうして、二人の人間が全人生を一緒に過ごさなくてはならないのかしら」のちに娘クリスティーナはこう言っています。「父親、夫、恋人など、マイヤと男性との関係は熱愛であり崇拝でした。マイヤは自らの作品に男性の存在を溶け込ませ、その一部にしていました。そして、それと同時に、自分の独立性と自由を保とうとも努めていました」・・・つまり、ひとことで言うと、「恋愛依存体質、でも自由でいたい、束縛されたくない」ってことですよね?どう考えても結婚に向いてなさすぎ。笑1970年、マイヤは旅に出ました。(離婚の時期は不明)この時、パリで出会ったイスラム劇研究家のエジプト人男性アフメドとは長く発展的な友情、そして恋愛へとつながっていき、マイヤの作品にもアフメドの影響が色濃く出ました。1971年、パリからアルジェリアへ渡ります。芸術家友達のフランス人男性とのちに深い恋に落ちるモハメドという男性と暮らし始め、ヴィラやビーチで自由気ままに過ごしながら芸術活動をしていきます。(*´Д`)南国でのバカンス、うらやましいけど・・・なんかいろいろドン引き・・・ちなみにこちらがモハメド↓↓ワーーーイーーールーーードーーー!!!!!!笑でまぁ、モハメドに夢中のマイヤ(この時すでに45歳!)ですがマリメッコの仕事も順調です。マリメッコの女王、アルミ・ラティアはマイヤをとても信頼していてアルジェリアにいるマイヤをサポートしていたようです。そんな最高の環境で過ごしていたマイヤですが、1975年、恋人モハメドが別の女性(婚約者)と結婚。傷心のマイヤはアルジェリアを去りました。。。(ショックのあまり、マイヤはこの年マリメッコの仕事をしてません)アルジェリアからパリに戻ってからは、長らく友人であったアフメドと恋愛関係になります。(;´∀`)なんだこれ、ビバヒル??←古い男友達が恋人に昇格するって思いっきり「あるある」。笑1977年、そのアフメドとアメリカへ渡り、二人きりで過ごします。マイヤの男性遍歴についてはここまでしか書かれていません。その後、アフメドとどうなったのかは分かりません。もう50歳超えてますしね、それ以上の色恋沙汰は知りたくない気もしますが。笑1978年、この年はマリメッコとの共同作業がなく、ここからマイヤは娘クリスティーナと二人組のデザイナーとして活動を始めます。(2人の緊密な関係は、マイヤが引退する1987年まで続きました。)1979年、マリメッコ創業者アルミ・ラティア死去。あれだけ各地を放浪したマイヤですが1979年以降はフィンランドに落ち着いたようです。引退後の1990年代後半、大型ファブリックパターンに関心が集まりマイヤの1960年代のデザインが復刻され始めます。2001年3月、マイヤ・イソラ死去。娘クリスティーナ、孫娘エマ、ひ孫インミにみとられながら。以上、マイヤ・イソラのゴーイング・マイ・ウェイな生涯と奔放な恋愛遍歴をまとめてみました。・・・どうでしょう。マイヤは少女漫画の主人公かっ!ちゅーくらいドラマチックにモテまくるわけです。笑それが、彼女の作品に反映している、となれば。ね??これからウニッコを見るたびに「ああ、男性遍歴が・・・」って思いますよね?笑【楽天ブックスならいつでも送料無料】マイヤ・イソラ [ マイヤ・イソラ ]価格:9,612円(税込、送料込)最後に。マイヤの代表作「TANTSU」(1960/「ダンス」の意)がどうしても「細胞分裂」に見えて仕方ない件。ミトコンドリアっぽい・・・。これがどうしてダンスなのか?凡人には分かりません^^;ミトコンドリア↓↓(画像お借りしました)おしまい。