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カテゴリ:八房之記憶
夢と現の境目を無くす程度なら、まだかわいいもの。
本日もmixiを少し回ってみて、項目の欄に写真家・イラストレーター・詩人…の表記に辟易。 でも一番笑ったのは、アマチュアカメラマン同士が「仕事論争」しているところ。「いいからインターネットでそんなこと言い合わなくてもイイから、外出て写真撮ってきなさい」なんて言いたくなる。まぁ外寒いですからね。 M嬢から「映像作家さん」と呼ばれて、うーん…と唸る。映像で食べているのは事実。でも何か他の言い方がないかなぁ…と模索し、あぁ一番言われたいのは「渡邊八房さん」って代名詞なのか、と気づいたりもする。 「やっぱり渡邊八房さんだから」 「あぁ渡邊八房さんなのに」 まぁそう呼ばれるにはまだまだ修行が必要ですが。個の確立。 でもM嬢も「あたしがあたしであるために」というフレーズを使っていた。同感。 でも残念な事に、その文のコメントで「ナルシストOKてなことですか?」とあった。勘違いも甚だしい。てか勉強してからもう一度きてね、と言いたくなるものの、M嬢のサイトなので沈黙。 さて。今回のお題は「お遊び」。 最近「お遊びでコレやってます」みたいな表現をよく耳にする。 なんじゃそりゃあ。まぁ額に汗するのがかっこいいって時代ではないですが、なんか姑息な言い回しに聞こえてくる。 「お遊び」と言えば、そのものに対してのスタンスを自在にして、うまく言い逃れしているような感すらある。 実はこれ、「お遊び」と「お仕事」の境目が無くなってきている訳でもなく、ただ、きちっとした境界線が引けない人が増えてきただけの話。 パソコンやらデジカメが普及した今、 それなりの映像を撮ることなんてネコも杓子もできるってこと、まだ気付いていないポン太さんが多いですね。 フォトショップやイラストレーターを使ってちょちょっとやれば、 カッコいいっぽいのを作るのなんて三歳の子供にだってできるってこと、まだ気付いていないコン太くんも多いですね。 それでカメラマンだイラストレーターだポエマーだって片腹痛いですね。 パクってみましたインスパイヤされましたリスペクトしてます。それはただの「お遊び」でしかない。 でも「お仕事」は全然違う。技術的な問題というより、そこに費やされている精神が違う。責任が全然違う。 確かに80年後半あたりから、有名人たちが「お遊び」で、いろいろな作品を「融合」させるというブームがあった。でもそれは、 「切磋琢磨してその道のプロフェッショナルとなった方々が、その経験を使って“遊ぶ”ことが、かっこいい」ことだった訳で、大前提となるのは、その道のオーソリティが、という点にあった。 つまりどこぞの無名なシロートが、稚拙な技術で「遊ぶ」ことは不様です。 なた方が「遊ぶ」という単語を使うのは100年早いです。 いやいや、いい加減、自分の好きなコトくらいまじめにやったらどぉ?なんて思ったりもする。 僕はかれこれモノを書きはじめて20年を過ぎましたが、まだ「遊ぶ」気になれない。あと10年くらい経ったらろ「遊べる」かも知れない。でもきっと僕はまた「あと10年くらい経ったら」と言うだろう。多分。わかンないけど。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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