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Brog Of Ropesu

Brog Of Ropesu

Act 3 デウス・エクス・マキナ

                  ACT3

               デウス・エクス・マキナ



それは、遠い追憶の空。
それは、遙か過去に拡がる空。
それは、忘却の彼方にある、いつかの空。
今にも咽び泣き出しそうな空の下で嗚咽と慟哭が木霊する。

「ひかりちゃんっ!ひかりちゃんっ!目を開けてよっ!」

幼い黒髪の一見少女を思わせる可愛らしい少年の眼前に、血溜まりの中央でぐったりとしている一人の少女が映る。
少年が喚き散らす様に彼女を揺さぶるが、少女は電池の切れた自動人形のように、先程から呻きすら見せずぴくりとも動かない。
今はもう、命を告げる暖かな脈動も、とうの昔に響いていた音に感じる。

それもそうであろう、少女は喉元から秘部近くまでを縦一文字に、魚の腸抜き、又はマグロの解体ショーの様にパックリと腹部を開けた状態で横たわっているのだ。
この状態で中身が零れずに済んでいるのが奇跡と言える程の酸鼻な有様である。鬼籍に入るのも時間の問題だ。
その、人としての尊厳を奪われたあまりにも惨たらしい様に、例えそれが見ず知らず赤の他人であっても常人ならば気が触れてしまう光景であろう。

―――しかし、現在の少年の状況は違う。
愛する者、大切な者がそのような惨状に見舞われたのだ。
赤の他人がそのような無惨な状態となっている状況とは比較にならないくらいの衝撃であるだろう。
だが、少年は気が狂うまでには至っていない。
多少の動転を示しているが、それだけである。発狂するには程遠い、僅かばかりの狼狽でしか無い。
映画のスクリーンを通して現場を見ているような、どこか実感を伴わない感覚が少年を支配する。
それは、少年が散々目にしてきた昔日の日常。死の感触。
その、まともな精神を保っていれば気が狂うのが通常と言っていい日常と言う名の非日常の繰り返しによって、本人の意図せず精神に防壁が出来てしまい、フィルターを通すような干渉が常になって久しいのだ。
幼い時より、多くの死に関わり過ぎた為、焦りという熱を持った行動とは裏腹に、冷えたように澄んだ頭では理解しているのだ。

―――この少女はもう助からない、と。

そんな考えが過ぎる自分がたまらなく嫌で少年は唇を噛み締める。
眼前の少女―――光子の命の蝋燭が再び火を灯す可能性が、とうに消えている事に対して、妙に冷静に彼女の死を受け入れようとしている自分の思考に、だ。
不思議と彼女の死という、その現実を認めたくない、諦めたくない、という感情が浮かんでこないのだ。
怜悧な思考であるにも関わらず諦めにも似た判断しか浮かばない、自らの思考にも併せて無性に腹が立つ。
これだけおろし立ての剃刀の様な鋭い思考ならば、彼女を救う案の一つでも出てきておかしくない筈であるのに。
そして、同時に感じる在りし日の老人に対しての様な、自分の無力さに。
悔しさと歯痒さの余り、無意識に顎に力が入り食事を終えたノスフェラトゥの様に口からは鮮血が滲み出す。


―――その年のクリスマス。幸至家に来訪したのは、暖かそうな赤い服を着込んだ穏和そうな表情を持ち、子供達に夢とプレゼントを与える老人では無く、その老人―――サンタクロースに扮した格好をして押し入って来た強盗達であった。
まさに、あっ、という間という表現を使うに相応しいような刹那の出来事。
クリスマスという祭りに浮ついた無警戒な心は、易々とその死神達を招き入れてしまったのだ。
そして瞬く間にその招かれざる客は、そこにいた光子を始めとする、その両親、数人のパーティーに来ていた客達を見るも無惨な姿へと解体した。


―――瞬が遭遇したのは、ちょうど光子に鋭利なナイフが突き立てられようとしていた瞬間であった。
おつかいとして、光子の母から買い出しを承っていた人数分のターキーを強盗目掛けて投げる事で怯ませると、有無を言わさず光子を脅かそうとしていた刃物を抑える。
そして、そのままナイフを両手で固定すると槍を思わせる強烈な蹴込みを肘の逆側から打ち込む事で、問答無用でその腕ごとへし折る。
男は、まだ小学生に近い幼い子供がこのような動きをするのに瞠目し、この幼い報復者にさらなる追撃を許してしまう。
その一瞬の逡巡を抜け目なく見逃さず瞬はクリアな思考で次なる一手を算出すると、続いて、容赦の無い連突きを顔面目掛けて散弾銃の様に浴びせる。
そして頭が潰れたトマトの様に血にまみれ、形を失った所で、恐らくもう二度と動く事が無いであろう男の、関節が繋がっている側の腕を掴み、まるでゴミを捨てるようなモーションで窓の外へと向けて投げ捨てた。
当然狙い通り窓ガラスは激しい音を立て割れ、その音につられるように男の仲間達が音源となった部屋へと向かう声が聞こえる。
瞬は唯一の出入り口となっているドアの死角となる場所に身体を預けると、震えている光子を優しく抱きしめる。
そう、宝物を包み込むようにして。

「大丈夫だよ。ひかりちゃん。ぼくがいるから。」

しかし、光子は瞬の言葉に何の反応も示さない。声を出せないほど怯えているのか?そう推察して光子の顔を覗いた瞬は、己が過ちに気付く。

 光子の震えは怯えによるモノでは無かったのだ。
よくよく見てみると手首の動脈を切断されていて、そこから吹き出た赤黒い液体は、フローリングの床へと締まりの悪い水道の様に垂れ落ち、ちょっとした血の池を呈していた。
瞬が助けに入ったときには既に男に襲撃を受けた後だったのだ。
その震えは失血、痙攣によるものであったということだ。

リストカットによる傷はいくら空気中では血が固まる事で致死量の出血には至らず、命に別状が無いとは言え、早急に然るべき措置を取らなければ、酸欠による後遺症が残る恐れがある。瞬は、敵を殲滅することに集中し過ぎて、彼女が危険な状況にある事に気付けなかった自分が無性に赦せなかった。
命を守る行為よりも命を搾取する行為に没頭、優先した自分が、だ。
そして、同時に光子をこんな目に遭わせた連中に対してふつふつと、黒い感情が渦巻いて湧き上がってくる。

―――コイツラヲユルスナ、と。

「おい!何があった!」

恐らく襲撃する箇所の役割分担でもしていたのだろう、ヤケに統率された動きで男の仲間が部屋に入るなり喚き散らす。
その数は三人。まさしく釣られた様にやってきたのだ。
瞬は彼らを殲滅せんが為にわざと大きな音を立てたのだ。瞬、という黒衣の死神が用意した釜の中にまんまと誘われたのだ。先程までの死神である男達との世代交代の時間が始まった。

瞬はその姿を確認すると同時に、身体が勝手に動いていた。無論、部屋に出でた招かれざる来訪者を殲滅する為に。

その動きはまさに一足。勢いよく駆ける瞬は、文字通り部屋の死角となる場所から飛び出していた。
瞬の神速を目視出来る者がいれば空を飛んでいる様にさえ見えただろう、そんな一歩。
男達が気付いたときにはもう遅い。
瞬は人体の急所を容赦なく突き穿つ、殺人機械と化したのだから。
まず一人目の鼻の下にある急所、人中を寸指で骨ごと砕くと、同時に水月を蹴り上げ反動を利用して反対側に跳んだ。
ついで、その勢いを殺さぬままに、二人目の男の両耳を掴むと膝を突きだし、顔面を砕く。
当然、男の耳は千切れこの世のモノとは思えないまるでマンドラゴラを引き抜いた様な絶叫が部屋中に響き渡る。
皮肉にも伝説上の植物と違い、命を落とすことになるのは、引き抜かれた側であるが。

再び三角蹴りの要領で二人目の男の顔面を踏み台にすると戦意を喪失して撤退しようとしていた三人目の男の背に踵落としをお見舞いする。
そして、服の首筋を掴み握りながら腕を交差させ、そのまま落下する事で、男を締め落とした。
背を向けて逃げていた男は、そのあまりにも手際の良い殺人術に恐らく自分が何をされたのか解らぬままに失神したであろう。
そして駄目押しとばかりにまだ意識が残っていた、悲鳴をあげる二人目の男の金的を蹴り上げると、その威力のあまり空中に浮いた男の首に手刀を突き出し、その金切り声を沈黙させた。

一連の地面に一度も触れず舞っている様に殺戮を働くその光景はさながら死神のダンスパーティーであろう。
返り血に塗れた黒の少年が嬉々したように舞狂う。

そしてもう二度と声を発さなくなったその男の首から二指を引き抜くと、まるで汚れ物を払うかの様に部屋の隅へ放り投げた。
よほど乱暴に投げられたのか、はたまた見た目よりも首筋に瞬の指が貫通していたのか、男の首は元の場所に二度と帰れない、あらぬ方向へと飛んで行った。
完全な球形で無い為かラグビーボールのような無秩序な軌道で弾みながら、転がって行ったのであろう。
瞬は、放り投げた男に一瞥もくれず、つかつかと一人目の男に歩み寄る。
こちらは声をあげる気力すら無い状態で、まさしく虫の息である。
瞬は何の感慨も持たない表情で、その双眸に人差し指と中指を挿入し、ぬちゃ、という水音に似た何が潰れる様な不快な音を立てると先程放り投げた男と同じ方向へと投げつける。
締め落とされ床に突っ伏して気絶していた三人目の男は、その眼前でそのまま足を垂直に振り下ろすと、まるで壊れた不良品の打楽器を奏でる様な鈍い音を立てさせながら、その頭蓋を粉砕した。
三人ともそれなりの使い手であったのだろう。今際の際に無意識化で自らの急所を守る挙動を示していたが、それも詮無きこと。
殺す事を前提とした技術に、いくら一般的な格闘技を極めようと根本が違うのだ、その強さのラベルが違う。
いくら鍛えようと、水がテキーラになれる筈が無いのだ。


ぞんざいにゴミのような扱いをした男達とは対照的に、繊細かつ緻密に織られたガラス細工に近付く様な足取りで光子を見やると瞬は、その違和感に年相応の可愛らしい仕草で小首を傾げる。

―――おかしい。光子を置いておいた位置が変わっているのだ。

確かに、一人目の男に飛びかかる前は入り口の扉の死角に彼女は居た筈なのだ。
瞬が、“一方的な殺戮”と言う名の戦闘に夢中になっている間に、光子が意識を取り戻して自ら移動したのであろうか?
いつの間にか、部屋の中央―――血だまりの中心で倒れている光子。
思ったよりも傷が浅いのか?
僥倖を感じた瞬は安堵の息を吐き、急いで光子の元へと歩み寄る。

しかし現実は非情で残酷だ。光子の脈はもう動きを止めていた。
よくよく考えてみると実に、自分に都合の良すぎる介錯である。
瞬は一人を仕留めるのに、3分とかかっていない。3人を相手取ったとはいえ、合計にしてみても掛かった時間は申し訳程度である。
そんな短時間で先程まで気絶していた様な怪我人に移動が出来るだろうか?

答えは否。せいぜい助けを請う言葉を発するのが関の山であろう。
そして、いつ、このような傷を付けられたのだろうか?
それともまた気付かなかっただけなのか、まるで着ぐるみの様にぱっくりと彼女の腹が縦一閃に斬り開かれている。
あまりにも惨たらしい様に、行き場の無い感情をどうしようも出来なくて瞬は思いっきり床を叩き付ける。

「畜生!ちくしょう!!!どうして!どうしてっ!どうしてだよっ!!!」

莫迦の一つ覚えのように恨み言しか出てこない自分。
そんなモノはいらない。
心から渇望するのは彼女を救う手段だというのに、ただ悔しさと無力さに歯噛みするしかない自分。
そして感情を無理矢理昂ぶらせるようにする事で、極めて冷静に状況を理解、判断している自分を隠そうと取り繕う自分。
光子という少女との出会いによって変われたと思っていた自分であったが、結局はそう―――一年前のラグ爺のときと何も変わってはいないのだ。
それら、等身大の己の姿全てに、吐き気を催す。
強盗達、家族・・だった人達、そして大切な・・・本当に大切“だった”光子。
累々と連なる生の残滓を虚ろな目で見渡していると、部屋の中では強めの暖房が効いていた所為か、早くもプトマイン臭が鼻を突き始める。
加えて主を亡くしたせいか、はたまた強盗達に火を付けられたかどうかは定かでは無いが、台所では火の手が上がり始めていた。
たき火のような、木々が燃えていく撥音からするに、ここも、そう長くは無い様だ。

「結局、疫病神に、ここみたいな幸せの国は、相応しく無かった。それだけの事。」

あの日と同じ、自嘲する少年が影を落とす。

光子を炎の中に置き去りにするのも躊躇われたが、死体を愛でる趣味も無い。思い出の清算として、このまま火葬にする事にした。
どのような処理をされようとも、終わってしまった命が戻ることは無い。
死者に施しをして得られるのは、生者の自己満足。
己の為の救済であり、自らへの欺瞞でしかないのだから。
そのような身勝手な誤魔化しで彼女を貶めたくは無い。瞬は無言で、焼け落ちる自らの居場所“だった”、この場所をあとにした。

燃え盛る、まさに地獄の焦土を思わせる業火によって形を崩して行く、束の間の楽園だった場所。
宗派こそ違えど、あそこに本来居るべきなのは、死神である自分であったのでは無いか?

そう―――それはきっと正しいカタチ。

この獄釜で灼かれるに相応しいのは、太陽の様な光子では無く、闇の象形と言っても差し支えない己であったのだ。そのあまりの皮肉に、ただただ嗤いが止まらない。

「ははっ!あははははははっ!はははははははっ!!!燃えろ!全部!何もかも!跡形も無く!灼かれて焼かれて燃え尽きてしまえっ!」

広い広い、無限を思わせるような広大な空の下の片隅での少年の叫び声は余りにも無力すぎた。


○●○


「そして、俺は孤児院へと引き取られ、光子は親戚の家に引き取られ、離ればなれになったのであったな・・・」

睡眠を食い破るような悪夢。
それによって半ば強制的に目覚めさせられた瞬が感じるざらついた様な後味の悪さは、ここ最近の過去への回帰では、最高に最低な追憶である。

・・・それにしても、おかしい。記憶が混線しているのだろうか?

あのとき、光子は確かに死んでいた筈だ。
光子が親戚の家に引き取られたとなると、彼女はあのクリスマスの日に生きていた事になる。瞬が日真高校に入学したとき、偶然にも光子と再会できた事を考えると、それは紛れもない真実である。
そうなると、リビングで腹に空洞を抱えながら倒れていたのは一体誰だと言うのだ。
事実に齟齬が発生し、説明がつかない。
あのときリビングに横たわる光子は致命傷ではあったが生きていたのであろうか?

―――これは否。

元々、生き死にを生業としてきた瞬にとって、皮肉にも、その点に関しては見紛う事など万が一にもあり得ない。
だからと言って記憶違いもあり得ない。
クリスマスの惨劇の記憶は、鮮明で実感を伴い、肉を潰し、骨を砕く濁音、血の紅さ、死の感触、全てがたった今現実で起こった出来事の様にリアルなのだ。どちらの記憶も紛う事なき真実としか考えられない。

―――ならば

内包する矛盾は、どういう事なのか?


そんな起き抜けの朧気な思考を巡らす施行をしていると、不意に玄関のチャイムが鳴る。どうやら予期せぬ来訪者の様だ。
寝ぼけ眼をごしごし擦りながら、しぶしぶと面倒くさそうに玄関のドアを開けると、

「相変わらずですね。シュン。全く・・堕落していると言うか、何というか・・・そろそろ昼の11時を回るというのに・・・さも貴方らしい。」

見慣れた顔が、溜息一つ、瞬の前に現れた。

「うむ、リーウェル。久しぶりであるな。はじめと一緒ではないのか?」

そんな彼女の呆れ顔に気付いたか気付いていないか、異国の少女リーウェルを欠伸と共に迎える瞬。

「・・・何故、ワタシがハジメとセットで数えられるのですか。夜中の通信販売の見過ぎです。
それに、相変わらずの健忘症ぶりですね。一度、脳の精密検査をお勧めします。ハジメは一月前バイクで事故を起こし療養中なのを忘れましたか?」

“はじめ”という少年の名前を聞くなり、途端に不満そうに口を尖らせるリーウェル。

“志貫一” ―――瞬の後輩であると共に、リーウェルや総一らと一年前の事件で肩を並べて死線を越えた仲間である。
外面こそ軽薄で酷薄な印象を受けるが、仲間内の誰よりも情に厚く礼節を重んじ、そして誰よりも優しい好漢だ。

「ああ、そういえばそうであったな。はじめは見かけこそああだが、礼節を最も尊ぶ人間だ。見舞いなぞに行ったら返って気を遣わせて回復が遅れると思って避けていたのであった。」

それに、そのような事でどうにかなるタマでもなかろう?と、瞬は含むようにリーウェルへと笑いかける。

「それもそうですね。ハジメはゴキブリと変わらないしぶとさですから。事故程度、些末時でしょう。きっと頭が潰されない限り大丈夫だと愚考します。」

瞬に釣られる様に、くすりと微笑するリーウェル。

「そう、主さえ傍にいればはじめは満足だろうさ。」

片目を瞑りイタズラっ子の様な笑みを浮かべながら、皮肉めいた軽口を叩く瞬。

「だから!なぜ、ワタシがあの迂闊モノと共に時間を共有しなければならないのですかっ?!」

瞬の予測通り、沸騰したヤカンの様に、今にも間抜けな音を伴いながら蒸気を吹き出すが如き勢いで憤慨するリーウェル。
かといって、彼女がはじめを嫌悪しているというワケでは無い。
照れくささで頬を赤らめるのを悟らせないが為に、憤怒する勢いに任せて、その色を隠しているだけなのだ。

“相変わらず素直じゃない”と、瞬は漏れ出すように笑ってしまう。リーウェルは口調こそ冷たく計算高い印象を受けるが、存外に人懐っこく直情型なのだ。
瞬の様な、人をからかうのが好きな人間にとって、これほど格好の餌食も中々いない。まさしく、鴨が鍋料理の材料一式背負いながら来訪してきたようなモノだ。

「して、雑談をしに来たわけでもなかろう?如何なる用件だ?」

このままリーウェルをからかい続けるのも面白いが、それでは埒が明かない。
切り返しの言葉を発する瞬に、リーウェルは一つ、こほん、と咳払いをすると、その太古の宝石、琥珀のような瞳と、ルビーのように妖しい光を湛えた眼で、凜とした表情を象り、瞬を見据えながら

「今日は貴方に伝えたいことがいくつかあるので参りました。」

と、いつになく慎重な面持ちで告げた。

●◎●

―――正直に言おう。私は嘘を吐いた。

けれど、悪意は無いという事は自負できる。勿論、彼を裏切ったワケでも無い。
“記憶が無い”とは彼に言ったものの、断片的に一部の記憶はあるのだ。
それらがどう繋がっているか、はたまた全然別の時間軸なのかまでは曖昧で、解らないが。
靄がかかったように、浮かんでくるのは白衣の女性、黒髪の少女、それが奏でる昔日の唄、マツリという単語、そして、ぎこちない笑い方をする少年。
私はいつもガラス越しにそれらを眺めていた。きっと、羨ましかったのだろう。どのような境遇であったのか思い出す事は出来ないが、少なくとも幸せだったと思うし、何より心が温かい。
彼に、このノートの切れ端程度の記憶を話しても別に構わなかったのだが、現在の切迫した状況にプラスになるような情報は皆無。
イタズラに彼を混乱させる情報を与えるだけで限りなく無益であろう。無論、話すのが面倒だったのもあるが。
今となっては、大した嘘では無いのだが、彼に対して何だか申し訳無い気持ちと、後ろめたい思いとが混濁して、何だか身体の中がむず痒いくて妙な気分になる。
次に彼の顔を見たときに、真っ直ぐに笑えるだろうか?ちょっぴり、自身が無い。

そして、この暖かい記憶と共に溢れてくる様に甦るのが、冷たい記憶。
コンビニで温めて貰ったお弁当と同じビニル袋にアイスキャンディーを入れられたら、温まって溶けるように、その冷たさが暖に紛れてくれれば、まだ許せるのだが、さしずめこの冷たい記憶はアイスキャンディーなどでは無くドライアイスだ。
それは乱暴に熱を奪っていく冷気。
アイスキャンディーならば少し不快ではあるが店員のミスで済むが、ドライアイスでは悪意や邪念しか感じない。
ドライアイスな記憶では、“痛い”という単語ばかりが甦ってくる。無論、暖かい追憶と同様に断片的でしか無いのだが。
そして、私に向けてせせら笑った様な、心底楽しそうな嬉々とした笑顔を浮かべる白衣の人間達。
同じ白衣なのに、温かい記憶の白衣の女性と比べると、とても汚い煤けた黒に見える。
そして、笑いとしては、無理して作り出したような笑い方の少年と比べると、白衣の大人達の方が自然なのだが、少年の方が笑おうとする一生懸命さが滲み出ていて、ずっと綺麗に私の目に映る。

このドライアイスが出てきたきっかけは、あの糸目の執行者シヴァが原因だ。
シヴァに肉便器と罵られたときに、私の中で何かが弾け、ドライアイスが表に顔を出した。
月並みな表現だが、頭が真っ白になって気付いたら身体が動いていたのだ。
きっと自我を失う程に激昂していたのだと思う。内面にある、火傷するくらいの激情とは対照的にものすごく冷たい顔をしていた私。
彼には笑って誤魔化したけれど、何より自分自身が驚いた。

自分にあんな一面があったのだと。

シヴァが何の気無しに発した侮蔑は、冷たい記憶の中で何度も言われた言葉だ。

肉便器に始まり、中古品、穴あき、性玩具。
さまざまな言葉を笑いながら放って行った白衣の大人達。この人間達が笑いながら放つと言うことは、おそらくは侮蔑の罵詈雑言なのだろう。
それで白衣の人間達は私の反応を見ていた様だが、それは叶わない。
だって、私はその言葉の意味が解らなかったから。ただ、呆けているだけ。
その態度が気に入らないのか大人達は激怒して、また、いつものように私の中に冷たい棒を挿れた。
それはあまりにもひんやりしていて無機質で、それでいて乱暴で、身体の内側から私の心も同時に冷却していった。
そしてその行為に対する私の反応を見ては、再び愉悦に満ちた笑いを放ち、怒りを静めて去っていく白衣の人間達。その繰り返し。
怖くて恐い、嫌で厭な思い出の欠片。デリンジャー現象の様に、所々ノイズが入ったようにして途切れているのが不幸中の幸いだ。完全にこの記憶が復帰したらと思う、想像すらしたくない。 

温かい記憶は取り戻したいが、冷たい記憶は思い出したくもない。

―――今日は、もう、考えるのは止めよう。

考えるのは止めて、バカになれ。難しいことは考えるな。それは己を削り摩耗させるカンナでしか無いのだから。
それは逃避とも罵られるかも知れないが、私はそれを甘受したいと思う。折角の日だまりのようなぽかぽかした時間を失いたくない。
きらきら光る今は、過去以上に私にとっては重要だ。考えてはいけない。思い出してはいけない。その選択は正解だ。
そうすれば、私が傷つくことは無い。それに他の誰も傷付くことは無いだろう。
陰鬱な過去は捨てて然るべきモノ。・・・いや、むしろ積極的に廃棄するべきモノだ。
そうだ。全てを忘れ無知になれ。ちょっぴりお馬鹿でおっちょちょい。

―――それが“今”という新たな私なのだから。

●◎●

「―――先日のあの戦い、貴方たちを監視していた者がいます。
シュンの助太刀をしようとしたらその者に阻まれました。何とか退けたのではありますが、その頃には既にシュンも戦闘を終えていたもので・・・力になれず申し訳ありません。
・・・ところで、一体彼は何者でしょうか?」

一通りの、先日、自分が遭遇したあらましを説明すると、心底不機嫌そうな顔でリーウェルは瞬に誰何を問う。
恐らくは相対した人物が彼女にとって相当気にいらない人物であったのだろう。心なしか口調も刺々しい。
感情が態度に出てしまうあたり、わかりやすい性格の彼女らしい。と、瞬は内心思ったが、口に出すと強く反論されて堂々巡りになるのが目に見えているので、敢えて黙殺する事にした。

「・・・『世界の十戒』と言えば、主には通じるであろう。」

静かに要点だけを口にする瞬。
リーウェルは裏の世界に精通した人物である。その単語だけで充分過ぎる程の情報である。
外見こそ繁華街のストリートを歩くギャルそのものであるが、異端狩りを専門としていた“魔女”と呼ばれる部族の最後の生き残りなのだ。
“魔女”や“魔術師”と聞くと、不思議な能力を用いて、人々を拐かす存在を連想してしまいがちであるが、それは彼らを畏怖するあまり周囲が勝手に作りだしたイメージである。
実際の所、彼らは異能など使用する事は出来ない。
ただ、世界の摂理に従い、科学や化学、果ては物理などの知識を応用して、さも、異能の様に魅せているだけである。
彼らはあくまで、そういう風習を持つ部族であるだけで、それ以上でもそれ以下でもないのだ。
しかしながら、金属ナトリウムを利用した水中爆発、物理法則を巧みに利用して華奢な人間が自分の体躯よりも大きい物質を操るさまは、当時の他部族からすれば“神の奇跡”や“魔術”以外の何者でもない。
まさしく羨望であると共に畏敬の念を抱きつつも畏怖すべき“異端”に映ったであろう。
だが、彼らはあくまでも不思議な力を持っているワケでは無く、良くも悪くも普通の人間である。
無論、賢者である事には間違いないが。

そして、その優れた叡智を用いて、10年前に、「黄昏の夜」に殲滅されるまで「三大呪術師」や「八人機関」という摂理を無理矢理ねじ曲げる様な存在を駆逐せんが為、影ながら世界を支えていたのである。
異端の力を酷使できる存在はあくまで「三大呪術師」「八人機関」「世界の十戒」の面々に他ならないのだ。


「・・・やはり、そうですか。
いえ、すいません。きちんとした確証が得られなかったので確認が取りたかっただけです。あの油臭い男の言葉を鵜呑みにするのも癪でしたし。」

さらりと言葉尻に本音を吐き捨てながらも、リーウェルは続ける。

「確かサトシが以前所属していたという、あの何ともいけ好かない集団ですね。
ワタシたちと同じ、異端を狩る存在ではありますが、絶対正義の名の下に、周りの被害を顧みないなんとも劣悪な集団です。
あの油男があまりにも癇に障ったので、彼らの実態を調べ上げてみた所、最近、指揮官が優秀な人材に変わった事により、近頃の原則としてはチームで動くようになっています。
且つ個の能力もそれぞれ一騎当千。
各個撃破すらもままならないとは・・・なんとも厄介な連中です。シュンを襲撃したあの男は単独でしたから、まさしく僥倖だったと言えるでしょう。
現在の十戒は“勇将の下に弱卒なし”という格言をそのまま体現した見本と言えますね。やれやれ、というヤツです。」

はぁ、とまるで宿題が山積みのままで、夏休み最終日を迎えた学生の様な面持ちで、さも面倒臭そうに溜息をつくリーウェル。
本来なら共に手を取り合って異端を排除すべき間柄なのであるが、それと敵対すると言うことは、彼女にとっては、余分な、それも困難な仕事が増えた事と同義であろう。
口ぶりから察するに相当馬が合わない人物と邂逅したのだろう。すっ短気なリーウェルの事、その様子は目に浮かぶ様に鮮明に想像できる。

「・・・・それにしても以前から疑問を持っていたのですが、何故シュンはこれ程までに、こちら側の事情に詳しいのでしょうか?
全滅したと言われた魔女にワタシという唯一の生き残りが居た様に、シュンも退魔士などの生き残りなのでしょうか?」

いつもの凜としてる姿とは裏腹に、年相応の、何の含みも無い表情で、話題を転化するリーウェル。
そこに探りなどは無く、単純に好奇心から質問した事が、遠目でも解る。

「うむ。まぁ、そのようなモノととってくれて構わない。」

この争いは自分で蒔いたタネが育ちに育って放置していたが為に、蔓が絡みついてきた様な闘いである。
方法こそ違えど、理念は十戒と一致する、元来十戒と相身互いとまでは言わないが、共闘すべき立場の彼女に無益な争いはさせたくない。
十戒を相手取るのは、そこら辺のヤクザ者を相手にするよりも断然タチが悪い。
酔狂で相まみえるような生易しい連中では無いのだ。
だが、仲間である彼女に嘘を平然と明言する事だけはしたくない。そんな思いから曖昧な返答をする瞬。

「ふふ。貴方は嘘を吐くのが下手なのですね。」

くすりと笑うリーウェル。
答えに窮し、僅かにタイムラグが発生したのを、彼女は見逃さない。瞬が取り繕った言葉はあっさりと看破されてしまった様である。
思えば不思議な少女である。
年齢は瞬より一つ下なのであるが、その穏やかな微笑は、それにそぐわない大人の色香が漂う。
と、同時に時折、実年齢よりも幼い、可愛らしい仕草も見せるのだ。

―――成る程。
かつて魔女と呼ばれた部族が皆、彼女の様な不思議な魅力を湛えていたならば、それはまさしく讃えられて然るべきな存在であろう。畏敬の念を捧げられるのも納得できる。

「答えたくなければそれでも構いません。貴方が何者かなどワタシにとっては些末事、それにより信頼が崩れる事など万が一にもあり得ません。」




====#27ここから

「・・・感謝する」

先程の微笑みとは一転、一切の冗談じみた表情を見せず、瞬の目を真摯に見据えて宣言するリーウェル。
敢然としたその態度は、まさしく全幅の信用の証であろう。
素性の知れない人間を信用すると言うことは、言葉以上に難しいことである。それを平然とやってのけるリーウェルという少女の誠実さに、瞬は舌を巻く。
己が、不誠実に誤魔化しをした後ろめたさもあり、その誠意にただ感謝する事しか出来なかったが、より一層、このリーウェルという少女に好感を持った。

「そしてもう一つ、最近になって街の至る所で、奇妙な現象が幾重にも目撃されています」

「奇妙とな?」

オウム返しに、片眉を下げる瞬。

「ワタシも先日、鳥の頭を持つ人間を排除しました。あの形状は誰がどう見ても空想上の怪鳥ガルーダです。
他にも、自らの意思で動くマリオネットや、空まで伸びる豆の木・・・そんな珍妙な現象が相次いで発生しています。
そして増加の一途を辿ると懸念されます。勿論、遭遇したモノについては、ワタシの方でまとめて処理しておきましたが・・・。
シュン?この現象・・・何かに酷似しているとは思いませんか?」

リーウェルの目撃した珍事は嫌でも、一年前の“黄昏の夜”を取り巻く争いを彷彿とさせる。

―――そう、此度の現象と全く同じと言って良い怪異を引き起こす、そんな能力者が居たのだ。
まるで、“物語”というおもちゃ箱を現実世界にひっくり返してばらまく様な異能者が。

「クリエイターの能力・・・か?」

真っ先に脳裏に浮かんだ心当たりが瞬の口をつく。反射的と言って良いほど、それしか瞬には思い浮かばない。ある意味、確信めいた見当である。

「そうです。いずれも、まさしく物語から飛び出してきたような様相でした。或いは逆説的に、ワタシが物語の世界に迷い込んだと錯覚しました。
早速、先の戦争でのクリエイターであった少女、勝呂真理絵にコンタクトをとってみたのですが・・・・」

目を瞑り、かぶりを振るリーウェル。そのジェスチャーが示すは否定の意だろう。

「完全にシロでした。彼女は現在も病院で療養中。後遺症が抜けきっていない様子でした。
そもそも彼女の力も、ソウイチやハジメ、イツキの様に“黄昏の夜”に由来するモノでありますから、”黄昏の夜”が消滅した今となっては、ある意味出来レースな聞き込みだったと言えるのですが・・・」

―――勝呂真理絵。またの名を創造者(クリエイター)。黄昏の夜に選定された12人の一人であった、生まれつき病弱で、いつも入退院を繰り返していた少女。
裕福な家に産まれたせいか、欲望や打算、謀略が渦巻く環境で育ち、そうした中で暗躍する大人の姿を、その歳にしてまざまざと見せつけられ、心を閉ざしてしまった少女。
そんな彼女の心の寄る辺はいつも大好きな絵本や冒険譚。厭世感の強い彼女にとって、物語の中こそが、唯一の居場所であった。
そして、ある日、幸か不幸か黄昏の夜に魅入られた事により、その根源じみた願望に応じるが如く、物語の登場人物を現界する事が可能となる異能を得た。
無論、彼女自身にとっては夢が現実となったのだから、幸運以外の何者でも無いのであるが。
それにより、自らの願いが叶う可能性と好機を見い出した彼女は、現実世界を自分の大好きな物語に書き換えようと、幻想世界の住人達を町中に蔓延らせたのだ。

結局のところ結論から言えば、彼女の願いは、瞬やリーウェルらの手に阻まれ、ついぞ叶うことはなかったのだが。
自らが最強と信じたヒーロー、どんな願いも叶えてくれる魔法使いなど、彼女にとって憧れの象徴、絶対的な存在達が、ことごとく敗れていく様を目の当たりにした事や、異能を酷使し過ぎたが為に最後には放心状態となり、半ば廃人となってしまった不幸な少女である。
とは言っても、彼女が願ったのは、紛れもなく現実の破壊であり、未曾有の大混乱。まだ幼さが残るが、善悪の判断もつけられる年齢である。同情の余地はあるが、許されることでは無い。


今回の事件の犯人候補と予測していた彼女であるが、リーウェルの言から察するに、心は未だ抜け殻のまま、即ち今回の事件に関わっている可能性は低いであろう。どうやら邪推であったようだ。

「それと、可能性は未知数ですが、もう一つ心当たりが・・・」

これは、心当たりというか、あくまでも候補です!子供っぽいと笑ったら死刑です!と、やや脅迫じみた圧力を伴いながら、推論を述べていくリーウェル

「『寓話公』。この人物が確かに実在し、人々の噂や伝承といった類の幻影でなければ、あるいは。
・・・ですが、彼の存在は最早、子供が信じるかもどうかも怪しいおとぎ話。考えにくい」

言わなきゃ良かった・・・と何とも照れくさそうに頬を掻くリーウェル。
それもそうであろう。寓話公とは、子供から大人までほとんど誰もが知っていて、現代の世まで伝えられている伝承ではあるが、幽霊だとか悪魔、妖怪の様に信憑性が低い存在である。子供が信じている分、まだサンタクロースの方が信憑性に富むと言えよう。
理知的なリーウェルとしてはそういった確証の持てないジョン・ドゥあるいはジェーン・ドゥすらの判断がつかない概念を推論として挙げるのはこの上ない恥辱といえるのだ。

「そ、それよりもです!そんな朧気なモノより、現在進行形で逼迫している本題に戻りましょう!」

リーウェルは、咳払いを一つ、気持ちを切り替えるスイッチの様にすると、瞬へと向き直る。

「シュン。ワタシは、相手が十戒であろうと何であろうと、敵と判断したならば容赦はしない。例え、相手が子供であろうと問答無用で殲滅するでしょう。
覚悟とは互いに奪い合う事だとも思っています。一般的に、冷血と呼ばれる人間に分類されるでしょう。
・・・ですが、仲間を守るためならば、命が惜しいとは思いません。如何なる状況であっても、微力なこの身なれど、馳せ参じましょう。」

薄く笑うようにして瞬へと告げるリーウェル。そこに見え隠れするのは彼女の不器用な親愛の証なのだろう。

「・・・これは、俺の問題だ。迷惑をかけるワケにはいかない。」

「何を水くさい事を。シュン?貴方もワタシが危機に陥った時に、助太刀をしたでしょう?
・・・つまりはそういう事と言う訳です。」

いつも仏頂面の彼女には、珍しく満面と言って差し支えないほどの笑顔を向け、弾むようにリーウェルは続ける

「それに、力を失ったソウイチ、ハジメ、イツキとは違い、ワタシは元々こちら側の人間です。荒事には慣れています。」

ふふん、と得意気に未来とは対照的な豊満な胸を張るリーウェル。瞬も、その仕草が何とも愛おしくて思わず笑みが零れる。
瞬にとってリーウェルは危なっかしくも頼り甲斐のある仲間であると同時にやんちゃな妹のような存在なのだ。

「よ、要するにです!・・誠意には誠意。悪意には悪意を。そして迷える子羊には無償の愛を示すのが最低限の礼節と言うモノですよ!と、特に深い意味はありません!」

そんな瞬の様子に、気恥ずかしさを感じたのか照れ隠しにとんちんかんな事を言うリーウェルの慌てっぷりは、逆効果であろう。より一層、瞬の微笑みは増し、年頃の娘を持つ父親の顔を呈している。

―――ただ与えられた業務を淡々とこなす自動人形であった昔とは違う。今ではこうした頼れる仲間もできた。今はその好意に甘えることが一番の誠意に繋がるのだと思う

瞬はそんな事を思いながら、主ほど直情的で熱血な人間はそうそういないのではあるがな、と苦笑しながら、彼女に小さく祈る様に感謝した。



●◎●


日真市郊外、廃工場跡地。
ここは、時代の急激な移り変わりによって、経済からの撤退を余儀なくされた、前時代の工場の亡骸達が郡立する。
土地が余っている日真市では予算の都合もあり、これらは解体されることも無く、栄光の残滓のようにひっそりと郊外に佇む。
外壁などは所々崩れ、空洞を象り、風が吹き荒ぶとまるで誰かを待ち焦がれる想い人が奏でる笛の様に寂しい音色が聞こえてくる。
その様は、まさしく忘れ去られて久しい、大型生物の遺骸と言っても差し支えない。

―――そんな白骨死体のジャングルに、一人の幼い少年と数匹の狼がいた。

褐色の肌をした少年は、このような形骸化した、時代の墓場よりも、昼間の公園が相応しいと断定できるほど、生に満ち溢れ活気に満ちている。
一方、少年をリーダーと慕うように群れるのはニホンオオカミと言われる、この国では既に絶滅したと言われて久しい種である。
仮にそう思われていただけで、生き残っていたのだとしても、元来、山で暮らす彼らが現代文化の象徴である工場跡地でその存在を確認されるのには、違和感が生ずる。
現代の遺物と言った点では、この廃墟と同類であるといえるが。
彼らは、この場所に似ても似つかわしくない異物のように映ると共に、その組み合わせも初心者の裁縫で出来た洋裁の様にちぐはぐだ。

「さ、お仕事お仕事っ!行くよ!フラガラッハ!アンヴァル!ウェーブ・スイーパー!タスラム!・・・そして、ブリューナク!」

少年の指示の元、名前を呼ばれたそれぞれの狼たちは陣を敷く。
少年が嬉々して見据える先には、影が一塊。目をこらすと妙齢の女性、腰の曲がった老体、中肉中背の男性とそれに従属するように傍らに佇む4人の男達が見える。
どうやら、それが彼らの、狩りの獲物の様だ。

「作戦内容は殲滅!みんなお腹減ってると思うけど、皆殺しにするまで我慢すること!良いね!
・・・終わったらさ、あいつら喰っちゃっても構わないけど。じゃ、みんな!貪って貪ってむしゃぶり尽くせ!」

少年が宣言を終えると同時に、アンヴァルとウェーブ・スイーパーと呼ばれた二頭の狼達が左右に展開し、駆け出す。
そして、二頭に追い縋る様にして廃墟を駈け上り、上方から対象へと侵攻する、額に十字傷を持つ狼―――フラガラッハ。
少年と対象を結ぶ直線距離で突貫するタスラム。
一方で、ブリューナクは周囲を警戒しながらもその場に待機する。

まず、先行していたアンヴァルとウェーブ・スイーパーに、直線距離を駆け抜けたタスラムが居並び、合流する。
そして、三匹は瞬時に対象の中で誰が一番、御するのが容易いかを見抜き、熟練のスナイパーの様に正確に狙いを定めた。

「犬公ごとき!熊に比べれば脆弱な存在よ!」

中肉中背の男の従者とおぼしき筋骨隆々とした大男は、豪快な笑いを携えながら、手にしたおよそ自らの背丈と変わらぬ無骨な鉞を掲げ、構える。
それは、そのまま重力に任せて地面へと落とすだけで、相手をミンチへと変える無慈悲なまでの暴力の象徴と言えよう。
―――だが彼は知らなかった。“個”では無く“群”と言った存在が如何に強大なものであるかを。確かに一個体であれば熊に並ぶ程の圧倒的暴力の象徴はそうそうない。
だが、それも群体として軍隊の様相を呈した集団の比では無いのだ。
男がその大斧を力任せに振り下ろそうとする刹那、その両腕に左右からそれぞれアンヴァルとウェーブ・スイーパーが食らいつく。その丸太の様な腕に二匹の狼の牙が食い込み、筋繊維がぶちぶちと千切れて行く、低くくぐもった音を発する。

「公時!」

残り3人の従者達のリーダー格と覚しき男が、声を上げたときにはもう後の祭り。
二匹を必死に振り解こうと四苦八苦していた公時と呼ばれた大男の顔面へと追従していたタスラムが突撃する。三方からの同時攻撃が展開されたのだ。
その姿はまさに砲弾。超質量を伴った顎の一噛みに、ガタイの良い男、公時は断末魔をあげる暇すら貰えず、脳漿を壊れた噴水の様に撒き散らしながら絶命した。

「李武!貞光!」

「「御意!」」

彼らもまた、歴戦を超えた志士なのだろう。スイカを潰した様な、あまりにも凄惨な仲間の最期に多少の動揺を呈したが、直ぐに持ち直し、李武、貞光と呼ばれた二人の男達は、先ほどアンヴァルとウェーブ・スイーパーが公時にしたように、仰向けに倒れた公時の巨体に組しているタスラムへと、手にした刀で左右から斬りかかる。
その銀光がタスラムへと到達する瞬間―――

「貞光!上だ!」

リーダー格の男の怒号があがる。貞光はその大声に咄嗟に反応し、見上げるがもう遅い。
己の上空から飛び掛かるフラガラッハに喉笛を噛み千切られ、その網膜に焼き付いた空が彼にとって最期の映像となった。
それは、まさしく相手が何かを攻撃する、一瞬の隙をねらったカウンターだ。

人間とは、失うことに恐怖する生き物である。
それは家族であり、友人であり、己が財産であってもそうであろう。対象が大切なモノであればあるほど、それを失うことに恐怖する。
その究極の形が死だ。
死とは己の存在自体の消滅を意味する。自我そのものを失うのであるのだから、他の恐怖の比では無いと言えよう。
それは、生物としての本能、根源であり、如何に胆力に優れ、鍛えたモノであろうと、それらを100パーセント総て拭い去ることは人の身である以上、叶わない。
加えて、現在、李武は眼前で二人の苦楽を共にした仲間を失った。
その恐怖たるや推測するのも憚れるほどであろう。常人では発狂して然りというべき状況だ。
しかし、李武も常人とは一線を画した実力者である。恐怖に戦く事はない。

―――で、あるが。
心の奥底では恐怖がこびりついているのか、自分に背を向けていて一太刀で斬り伏せられる状態にあるフラガラッハ。
フラガラッハが貞光へと食らいついた隙に、既に李武へと向き直り臨戦態勢となっているアンヴァルとウェーブ・スイーパー、そしてタスラム。
優先すべき相手は誰か?という思考を過ぎらせてしまった。
その迷いが彼にとっての運のツキ。
逡巡した李武の足下にタスラムがかぶりつくと、アンヴァルは腹部、ウェーブ・スイーパーは喉へと牙を走らせ、確実に息の根を止めた。
命を守ろうとする生物の本能で、自らを死へと追い遣ったのであるから、皮肉としか言いようがない。慎重さとは時に命取り以外の何者でも無いのだ。
着実に任務をこなしていく狼達のもとに、リーダー格の男が辿り着いた頃には、人塊が三丁出来上がっていた。
そのあまりの手際の良さに、仲間であり友人を殺害した憎むべき相手であるにも関わらず、リーダー格の男は思わず感嘆の息を吐きながら身蕩れる。
しかし、如何に鮮やかな一連の統率された動きといえど、彼にとって、この狼達は敵以外の何者でも無い。かぶりを降ると、自らの得物を抜刀し正眼に構える。

「姓は渡辺。字は綱。其が分身、髭切りによって仕りつる!」

気合い一閃。自らを鼓舞したのだろう。
刀で横一文字に中空を斬ると再び正眼に構え直し、間合いを計りながら、徐々に4頭の狼達との距離を詰めていく綱。
だが、彼は眼前に相対する4つの兵に集中し過ぎて失念していたのだ。

―――彼らが5頭で一つの編成であることに。

必然的に、褐色の少年の傍らで待機していたブリューナクに背を向ける形となっていた綱に、背後からの強襲、奇襲に対応する術は無く―――

その、体に風穴を開ける羽目となった。

「鬼よりも恐ろしい存在と、相見えるとはな・・実に愉快であった」

満足そうにそう告げると、綱はその場に崩れるようにして倒れ伏した。



―――左右から翻弄しながら先行するアンヴァル、ウェーブ・スイーパー。
―――真正面から突撃を仕掛ける、タスラム。
―――三頭に対しての相手の反撃に対するカウンターとなる、フラガラッハ。
そして、その4頭が打ち損じた相手を確実に貫く―――それが、ブリューナクの役割だ。

―――元々、狼とは群れを成し、リーダーの元、集団で行動する習性ではあるのだが、この狼たちはそれでは説明がつかないほど、スパコンの様に狂い無く無駄の無い統率を見せる。
それはもはや、“群れ”というよりは一つの“軍隊”である。
分隊ほどの数しかいないにも関わらず、その戦果は中隊と遜色な無い程だ。

「さ、残りはあんたら三人だ。このルーと出会った事を呪うんだね。」

得意気にケラケラとした年相応のあどけない笑いを浮かべる少年。だが、その自然さがかえって不自然に映り、醜悪な凶悪さを醸し出す。

「―――よかろう。我が名は頼光。妖魔を狩る者也。四天王の仇討ち果たして見せようぞ。いざ、尋常に参る。」

少年の言に、すっと前へ中肉中背の男が歩み出ると、侍の姿をした男はただ無言で静かに刀を抜き、構えた。




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