2019/04/06(土)04:52
03月31日 バクチ m-34のも 背が高くなってきている 貴族 おべんきょうその07
2018年
01月01日 ばくち まだ 小さいが 葉は増えてきている 追肥をしておいた
01月14日 バクチ 3か月が過ぎたが おおきくはならないな 小さいままである
02月04日 バクチ 小さいが もう 収穫する時期になりつつあるなあ
03月21日 バクチ 畑の分 まあまあ ちいさいが 育ってきている
04月01日 バクチ まだ たくさん 残っている 大きくなっているので 収穫できる
04月14日 バクチ まだ たくさんある かなり おおきくなっている
04月15日 バクチ hcで また 種を買ってきた ことしもバクチ 育ててみよう
04月16日 庭でバクチの種まきをしておいた
04月29日 バクチの種まきした分 やっと 発芽してきている これでよし
04月30日 昨年の残りのバクチ 花がさいているが まだ 収穫できそう
05月05日 バクチの苗 発芽した分 g-03に植え付けておいた 苗は無事なり
05月19日 バクチの苗 その後も 無事なり すこし生育してきているかな
05月27日 バクチの苗 その後も 元気なり
06月02日 バクチ その後も ちいさいが 無事なり
06月09日 バクチ 苗はなんとか 育ちつつある
06月16日 バクチ その後も苗は無事なり
06月23日 バクチ 苗は なんとか 無事なのは 2本くらいかな でも 無事なり
06月24日 バクチ 種がたくさん ついてきている 大量の種が収穫できそう
06月30日 バクチ 種を収穫しておいた 納屋において 次に種を保管しよう
07月07日 バクチ 成育中のバクチ もう 花がつぎだした 早くも お終いになってきている
秋のバクチ
09月23日 バクチのタネ 収獲したのがあったので 庭での種まきをしておいた
09月29日 バクチ 種まきした分 発芽してきている たくさんある
10月06日 庭の種まきしたバクチ そろそろ 移動してもよさそうになった
10月14日 バクチ m-06の畑の畝に移動した まあ なんとか 無事かな
第二弾の種まき
10月06日 バクチの種まきを追加してやっておいた
10月20日 第二弾のバクチ 発芽した たくさんある これも 畑に移動しよう
10月21日 発芽したバクチの苗 m-34 m-06のあちこちの空いている畝に植え付けた
10月27日 g-03の前のバクチの畝にも 種がおちて たくさん発芽してきている
10月28日 m-06の畑の畝には バクチ 36本 無事に成育している
11月10日 m-34のバクチ こちらのものも まあまあ 無事に成育してきている
11月17日 m-34のバクチ ここのは 種ができるまで 放置としよう 種専用の苗としよう
11月24日 あちこちのバクチ 結構とおおきくなってきている 収獲できそうだなあ
11月25日 バクチ 昨年のバクチのタネが あちこちで発芽したのが おおきくなっている
12月01日 バクチ g-3のもの これは もう 収獲はokだなあ
12月08日 m-34のバクチ これも 順調である
12月15日 バクチ 収獲をした 結構とよく育ってきていた
12月16日 ニンニクの畝にも バクチ たくさんある
12月17日 m-06のバクチ ここも 大量にバクチがある
12月18日 m-06のバクチ これは こぼれ種から勝手に生えてきている 種まきしなくてよい
12月22日 m-34のバクチ こちらも 良くぞ立ってきている
12月23日 バクチ 収獲をした 2回目なり まあまあ
12月29日 バクチ 収獲できるバクチ あちこち たくさん ある
2019年
01月03日 バクチ 3回目の収獲をしておいた
01月12日 バクチ その後も 成長はしっかりとしている
01月14日 バクチ m-34の畝の分 元気なり 収獲しておいた
01月20日 バクチ m-34の畝の分 その後も 元気なり
02月02日 バクチ 5回目の収獲をしておいた
02月09日 バクチ m-06のもの たくさんある
02月23日 バクチ m-34の畝の分 生育は良し 収獲はokなり
03月02日 バクチ 6回目の収獲をした
03月03日 バクチ m-34の畝の分 まあまあである
03月16日 バクチ 成長を開始してきているみたい おおきくなりだした
03月23日 バクチ m-07のバクチ こちらも 成長を開始してきている
03月31日 バクチ m-34のも 背が高くなってきている
貴族 おべんきょうその07
概要
アジア
日本
古代
日本における貴族の登場は7世紀後半から8世紀初頭の律令制成立期に求められる。
このとき貴族の母体となったのは豪族階層であった。
7世紀以前の倭国(日本)では氏(うじ)と呼ばれる同族集団が形成されていたが、その氏集団を統率する族長たちが豪族階層を構成していた。
当時のヤマト政権は氏集団 = 豪族たちの連合政権としての性格も有していた。
しかし、7世紀後半の天智・天武期以降、天皇(大王)への権力集中化が急速に進み、中央豪族らは官人として再編成されていった。
大宝元年(701年)に制定された大宝律令のもとで、旧来の豪族は位階に応じて序列化された。
三位以上を「貴」、四・五位を「通貴」という。
「貴」は貴人を意味し、「通貴」は貴人に通じる階層を意味した。
これら「貴」、「通貴」、及びその一族を貴族と呼んでいる。
「貴」と「通貴」では与えられた特権に差があったため、「貴」は上流貴族、「通貴」は中流・下流貴族に位置づけられている。
貴族は経済的特権として国家から多大な収入が与えられていた。五位以上には位田、四・五位には位禄、三位以上には位封、さらに、太政大臣・左右大臣・大納言に任官すると職田・職封が給与された。
このほか、位分資人・職分資人なども与えられた。
これらの収入は三位以上と四・五位の間に大きな格差が設定されており、さらに大きな格差が五位以上と六位以下の間に設けられていた。
また、身分特権として、位階に応じて子孫が位階を得る蔭位制度があった。
蔭位により、貴族は子孫へ各種特権を世襲することが容易となっていた。
日本の律令制の特徴は貴族の合議機関である太政官が政治決定の枢要とされた点にある。
唐律令では天子直属の中書省と貴族代表の門下省とが政治決定の場において拮抗していたが、日本律令では天皇直属の中務省は太政官の下に置かれていた。
太政官において国政審議に参与する貴族らを議政官(公卿)というが、律令制が開始した8世紀の代表的な議政官氏族を挙げると、安倍氏、大伴氏、藤原氏、多治比氏、紀氏、巨勢氏、石川氏らであった。
慣例的に各氏から議政官となるのは1人だけとされており、議政官は氏族代表者会議としての性格を有していた。
ところが、8世紀30年代ごろから藤原氏議政官が複数現れるようになると、藤原氏議政官が増加の一途をたどるのに対し、他氏族の議政官は次第に減少していった。
貴族社会全体でも藤原氏の増加と他氏族の没落が見られた。
こうした傾向に拍車がかかったのは8世紀末-9世紀初頭の時期とされている。
歴史学者の義江明子は、氏が持っていた在地性・両属性がこの時期に失われ、氏の再編が起こったとする[9]。
宇根俊範は、桓武天皇は従来と異なる方針で諸氏族の改賜姓を行い、このため、貴族社会における各氏族の序列が大きく変化し、源平藤橘を頂点とする新たな貴族社会秩序が生じたとする[10]。
平安時代初期の議政官をみると、藤原氏のほか、源氏、橘氏、清原氏、菅原氏などのように、奈良時代にはみられなかった氏族が急速に台頭していた。
880年ごろには議政官氏族の多様性が失われ、藤原氏・源氏が議政官のほとんどを占めるようになった。
藤原氏は、摂政・関白の地位を獲得し、それを世襲することに成功した。以降、10世紀から11世紀にかけて、藤原氏嫡流(摂関家)は、天皇の外戚、すなわち、身内として代々摂関となって貴族社会の頂点に位置し、10世紀から11世紀にかけて摂関政治と呼ばれる政治形態を布いた。
ただし、通俗的な理解とは異なり、摂関家は専横的に権力を振るったわけではない。
摂関といえど独裁的な国政決定を行なうことはできず、重要な国政決定はすべて陣定などの公卿会議を通じて行なわれていたのである。
9世紀後半から10世紀にかけての時期に上流貴族が藤原氏・源氏にほぼ限定されると、他氏族は中下流貴族として存続する道を模索し始めた。
10世紀初頭、王朝国家体制への移行に伴い、律令機構や権能を特定者へ請け負わせる官司請負が行なわれ始めたが、機構・権能の請負いに成功した中下流貴族は、その機構・権能を家業と位置づけ、それを世襲する家業の継承を行なうようになった。
例えば、武芸・軍事を家業とする下級貴族(地下人)は「兵(つわもの)の家」と呼ばれ、押領・追捕・追討活動に従事する軍事貴族(武家貴族)となり、武家(武士)の母体となっている。
この官司請負と家業の継承は、11世紀以降、貴族社会に広くみられるようになり、そのため下級貴族は家業の継承や受領職の獲得などにより生き残りを図ったのである。
家業の継承を通じて、家産(家の財産)の蓄積が進み、貴族社会に「家」概念が登場することになった。
摂関政治、官司請負、家業の継承が始まった10世紀前半は、その後の貴族社会において最重要事項とされた朝廷儀式・宗教儀式の標準作法が形成された時期でもある。
非常に多数の年中行事からなる儀式は細部まで作法・様式が決められており、儀式を滞りなく執り行うため、『西宮記』、『北山抄』などの儀式書も作られた。
はた坊