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カテゴリ:ニラとみつば
2018年 01月01日 にら もう 枯れてしまっているなあ 02月04日 にら その後も 枯れたまま 寒いので 枯草みたいになっている 03月04日 にら そろそろ 発芽してきている 04月01日 にら もう かなり 大きくなってきている そろそろ 収穫できそう 05月01日 にら 雑草の畑にらが 交じっている 雑草を取り除いてしまおう 05月12日 にら 雑草とりをしておいた これで すっきりとした 05月28日 にら 結構と大きくなってきている たくさんある 06月02日 にら あちこちのにら 若い葉が どんどん 出てきている 06月03日 にら g-01のは たくさんある そろそろ収穫していこう 06月09日 にら たくさんある 成育は よし 収穫はokなり 08月28日 にら 秋になって また にらも 元気になってきている 09月02日 にら 花が咲いてきている 09月09日 にら 若葉が 出てきている 09月16日 にら あぜ道のにら たくさんあるぞ 若々しい 09月23日 にら 収獲をした 結構とたくさんある 10月14日 にら しっかりと 生育をしてきている たくさんある 10月20日 にら あぜ道のにら これも新鮮である こちらのほうが青々としている 11月25日 にら 新しいにらは 元気だなあ 葉も いきいきとしている 12月22日 m-08のにら 少なくなったにら 寒さで元気はなし 12月29日 にら バラバラに植えている部分は元気でいまでも 収獲はokだなあ 2019年 01月03日 にら 冬で かなり弱っている 植え替えしてみようかな 01月12日 にら g-1のにら 植え替えをしておいた すこし間隔を広げておいた 01月19日 にら g-01の植え返しておいた分 しばらく定着するまで時間かかりそう 02月02日 にら g-01の植え付けした分 まだ そのままなり 02月03日 m-07のにら 新芽でてきている 02月16日 g-01のにら 植え替えしたが 土の上においているだけ 定着するかな 02月23日 g-01のにら 発芽してきている すこしだけだけどねえ 03月02日 g-01のにら すこし 芽もでてきている 03月09日 g-01のにら 雨がふったりして 発芽も順調である 03月16日 にら 発芽して 元気になってきている 03月23日 にら 発芽して 元気になってきている 04月13日 にら 分散したにら 元気になって 雑草も交じってきた 04月27日 にら 新しく生えてきているにらは 元気に育っている 04月28日 にら g-01の株分けした分 こちらは あまり 元気がないなあ 05月12日 にら 新しく生えているにらは 元気がある 07月20日 にら あぜ道のにら 元気の育っている 07月27日 にら あぜ道のにら その後も 元気なり 08月10日 にら 花芽がついてきている 背が高くなってきている 08月24日 にら m-34のにらも 花芽がついてきている cutしておこう 09月01日 にら 花芽がどんどん ついてきている 花も綺麗なもの 09月23日 にら あぜ道のにら こちらは青々としている 元気であるなあ 09月29日 にら 畑のは元気がないが あぜ道のにらは 元気である 刈り取りすれば 元気に 10月14日 にら 種がおわって また 葉が 元気になってきている 10月22日 にら 種のできている部分 黒の実になっている 10月26日 にら 種の写真を撮ってみた 黒い実がたくさんある 落下したら にら 増える 10月27日 にら あぜ道のにら これは 元気で 若々しい 11月03日 にら あぜ道のにら こちらも 元気もりもりである 11月09日 にら あぜ道のにら その後も 元気だ すごいなあ 11月23日 にら 畑の中でも 増えてきたニラは 元気すぎるくらいだなあ 児玉 誉士夫 おべんきょう その08 裏社会活動 60年代初期には15万人以上の会員がいた日本最大の右翼団体全日本愛国者団体会議(全愛会議)を支える指導者の一人であった[注釈 23]。 1961年、この全愛会議内に児玉に忠実な活動グループ青年思想研究会(青思研)が誕生した[注釈 24]。 60年代終わりには青思研を全愛会議から脱退させた。裏社会の人物の中では特に稲川聖城と親しく稲川は児玉を兄貴分として慕っていた。 60年安保闘争の際には児玉の呼びかけで稲川の配下の組員をデモ隊潰しに利用する計画もあったとされている。(詳細は岸信介の項目も参照。) 1967年7月、笹川良一の肝煎りで、「第一回アジア反共連盟[注釈 25]結成準備会」が開催された[注釈 26]。この時、市倉徳三郎、統一教会の劉孝之らが集まったが、児玉も自分の代理として白井為雄を参加させた。 1969年、青思研より独立した右翼団体日本青年社[注釈 27]が結成。これはヤクザと見分けが付かない任侠右翼の始まりであった。 児玉は1965年の日韓国交回復にも積極的な役割を果たした。 国交回復が実現し、5億ドルの対日賠償資金が供与されると、韓国には日本企業が進出し、利権が渦巻いていた。 児玉誉士夫もこの頃からしばしば訪韓して朴政権要人と会い、日本企業やヤクザのフィクサーとして利益を得た。 児玉だけではない。 元満州国軍将校、のちに韓国大統領となる朴正煕[注釈 28]とは満州人脈が形成され、岸信介[注釈 29]、椎名悦三郎らの政治家や元大本営参謀で商社役員の瀬島龍三が日韓協力委員会まで作って、韓国利権に走った。 日本国内では企業間の紛争にしばしば介入した。 1972年河本敏夫率いる三光汽船はジャパンラインの乗っ取りを計画して同社株の買占めを進めた。 困惑したジャパンラインの土屋研一は児玉[注釈 30]に事件の解決を依頼した[注釈 31]。 しかし、児玉が圧力をかけても、河本はなかなかいうことを聞かなかった。 そこで、児玉はそごう会長の水島廣雄に調停を依頼。水島の協力により、河本は買い占めた株の売却に同意する。 児玉は水島に謝礼として1億円相当のダイヤモンドを贈った。 こうして児玉の支配下に収まったジャパンラインは、昭和石油の子会社だった日本精蝋を1974年夏に買収した[注釈 32][注釈 33]。 児玉が圧力をかける時は今澄のときのように傘下のメディアを駆使した。 利用された大手メディアに博報堂がある。 その中に児玉は次の二つの目的を持ったセクションを作った。 一つは、博報堂の取引先を児玉系列に組み込む。 もう一つは、その系列化された企業に持ち込まれるクレームを利用してマスコミを操作し、なびかないメディアには広告依頼を回さない[注釈 34]。 このセクションは広告会社として品位に欠けた。 そこで、当時の博報堂の持ち株会社であった伸和[注釈 35]の商号を、1975年に博報堂コンサルタントへ変えて、また、定款にも「企業経営ならびに人事に関するコンサルタント業務」の項目を加えて、この元親会社に業務を請け負わせた[注釈 36]。 役員は、広田隆一郎社長の他に、町田欣一、山本弁介、太刀川恒夫が重役として名を連ねた。 広田は、福井純一[注釈 37]博報堂社長の大学時代ラグビー関係者で、警視庁が関西系暴力団の準構成員としてマークしていた人物。 町田は、元警察庁刑事部主幹。 山本は元NHK政治部記者。 太刀川は塚本素山ビルの等々力産業社長で児玉側近の第一人者であった[18]。 はた坊 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019.11.25 00:10:06
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