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はた坊のブログ   家庭菜園を始めて20年目に(菜園に専念に)なりました

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2020.05.03
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カテゴリ:天候 花 米 虫





たんぽぽ  4月になって どんどん たんぽぽ 広がってきている

もう あちこち 黄色の花が どんどん ついてきている

春になると たんぽぽ 大きさも 数も どんどん 増えてきている

冬のちいさいたんぽぽ  春になると 爆発的に 増えてきている

草木草木 みんな 絶好調になって 伸びてきている








平安京     おべんきょう    その010

歴史

京域が広すぎたためか、規則正しく配置された条坊が人家で埋まることはついになく、
特に右京の南方の地では桂川の形作る湿地帯にあたるため9世紀に入っても宅地化が進まず[8]、律令制がほとんど形骸化した10世紀には荒廃して本来京内では禁じられている農地へと転用されることすらあった。

貴族の住む宅地は大内裏に近い右京北部を除いて左京に設けられ、
藤原氏のような上流貴族の宅地が左京北部へ集中する一方、
貧しい人々は京内南東部に密集して住み、
さらには平安京の東限を越えて鴨川の川べりに住み始めた。

また、鴨川東岸には寺院や別荘が建設されて、市街地がさらに東に広げられる傾向が生じた。

980年(天元3年)には朱雀大路の南端にある羅城門(羅生門)が倒壊し、以後再建されることはなかった。

こうして次第に平安京の本来の範囲より東に偏った中世・近世の京都の街が形作られ、
京域を示す「洛中」という言葉も実質的に左京を指して用いられた。

平安時代の末期に至って京内で戦が頻発し、荒廃が進行した。

政情不安もあって治承4年(1180年)、
平清盛は安徳天皇を奉じて福原に遷都(福原京)したが、
公家たちの反対に遭い、わずか半年で京都に還都した。


はた坊





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最終更新日  2020.05.03 20:24:53
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