真理はわからない。
先日、宗教で出家をする人をバカにするような文章を書いてしまいまして、ご不快に思われた方もいらっしゃるでしょう。マジメに命をかけておられる方も、当然いらっしゃいます。言葉足らずでしたが、私が言いたかったことは、宗教だけではないのです。ましてや、聖書の創世記が真理かどうかを議論したいなんて思いません。生徒の受験勉強の話の流れを、ちょっと脇に置いて、「真理」の話をしたいと思います。根本的なことです。つまり、どんな文章からでも、真意を取り出すことは、不可能だと言いたいのです。現代の哲学の流れは、法則を見出そうという、構造主義を放棄したポスト構造主義と言われる状況ですが、荒っぽく言うと、「どのような文章でも、その文章の反対の意味を取り出すことが可能である。」という主張が主流です。つまり、何かの文章を読んで「この文章の意味はこうだ!」と決めてかかる人は、「読む」ということについて根本的な間違いをしている、というのです。文章を読んで、「その意味をひとつに決める」ことは、そもそも「できない」のです。これが、世界の哲学者が達した結論なのです。哲学だけでなく、科学の世界でもそうです。だったら、どう読めばいいのでしょうか?そんなの簡単。文の意味がひとつに決まらないのなら、言い換えれば、その文章の正しい読み方が無いのだったら、各自がそれぞれ好き勝手に、意味(解釈)を与えて読めばいいのです。当然、学校の「国語」が得意な人から反論が出るでしょう。「文章って、作者の意図を推し量って、それに従って読むのが正しいんでしょう?」でも、突き詰めれば、人は他人に直接、意図や意味を伝え合うことはできないということも、長年の歴史で、できない、ということが納得されています。つまり、文章とは、その気になれば、どうとも読めてしまう、単なる記号の羅列でしかないのです。だから、「文章は作者の意図に従って読むべきである」という主張は、実現不可能な空論なのです。まるで、知のテロリストみたいな、アウトローな主張のように思えるかもしれませんが、この主張が生まれるまでの、近代の哲学が生まれては破たんしていったかを理解すると当然だなあ、と私は思います。