2007/11/06(火)19:08
足らないのは論理力か?
特別支援教室の子どもたちに、どうして、この言葉が聞き取れなかったのか、または、これが目に入らなかったのか、と思わず、大きな声を出してしまうことがあります。でも、彼らは、怠けて見えなかったのではないのです。 フランスの哲学者、G/バシュラールは「世界は知られる前にまず夢見られ、次いで観照があり、最後に表象となって心に定着する」と言っています。ここで言う「夢」とは、現実的なものから組み立てられた「夢」ではなく、いわゆる「夢」そのもの。そんな夢によって現実的なものが再構築されるものだと言っているのでしょう。ものごとを知覚するということは、その根底に、あらかじめそれらを知覚する言語、あるいは心の準備が必要だということです。 世界を説明する理論は、科学的分析や実験が基礎になって構築されていくと思われていますが、実は、その逆の場合が相当多いんですね。 そこに、直感的な幻想の世界、別名、ファンタジーの世界を豊かにもっていることの重要性が感じられます。 宮沢賢治は、詩人であると同時に、科学者であり、教育者でした。同様に、相対性理論や、量子物理学は、現代の壮大なメルヘンと言えるでしょう。 世界は、「知られる前に夢見られる」のです。 特別支援教室の彼らが不足しているのは、単純な論理力と言うよりも、物語なのかもしれないなあ、って考えながら帰ってきました。 最先端の物理学では、「客観的な実在はない」と考えています。現象をみる 「意識」 をとおして、はじめて実在の世界へと浮かび上がってくるのであって、客観的な存在としては、見る物と見られるものとの間にある関係性、あるいは相互作用を規定する法則性だけであるとされています。
「お月様は存在するか」と言う質問されたとして、寅さんが、「そこにあるっちゃ。」と答えます。
でも、この答えが正しいかどうかはわからないんです。「俺はあると思うよ」と言っているに過ぎないんです。
ただ、明らかに月は存在するし、人類は、そこに足跡を印したと「私は思っている」だけです。または、アメリカの言う話を信じているだけです。
月が存在するかどうかは多くの人が信じられれば、事実となるのです。
神様いると思う人にとって神はおられるんです。
神様なんていないと思っている人にとって神は存在しません。
昔の恋人と偶然出合ったのを「運命だ」と信じる人にとって運命は存在する。
「ただの偶然だ」と信じる人にとってこれは単なる確率の問題なのです。
存在とは、何か「実体」がそこにあるのではなく、何かがそこにあると「信じる」ことなんだなあ。
寅さんは、魂があると信じています。だから私の魂はあるんです。
私にとって生徒は存在するように思われます。だから生徒は存在しています。
そして生徒には魂があるように思われます。だから生徒には魂があるんです。
有名な問いかけ、「誰も見ていない月は存在するのか」、これは簡単です。
「誰も見ていなくても、月の存在を信じている人が一人でもいれば、月は存在する」
ポイントは、あたりまえの風景の中に、直接目に見えないものをとらえるセンスをもてるかどうか、ということです。それも、豊かに。イギリスの作家、O・ワイルドは、「自然は芸術を模倣する」と言いました。これは、豊かな感性こそが、科学者に求められるという意味に受け止めています。そういう意味で、詩人と科学者は、共通の土台をもっているんだと思われます。 早期教育で、論理的な思考力を追い求めると、取り返しがつかないことになると、いろんな人が言っています。科学だけでありません。政治家にしろ、企業家にしろ、メルヘンの世界こそが、「現実」であり、「行動」を生み出しているのです。絵本の世界は、「子どもだまし」なんかじゃないんです!