カテゴリ:理想の学校に向かって
今の子どもたちの学習意欲は、低いっていいうもんじゃないですね。 授業が成り立たないだけでなく、 個人的にも、学習する意味を全く見失っています。
これを、世の識者は、 「家庭教育の崩壊だ」 「世の中がおかしくなってきている」 「道徳教育だ」 「とにかく学力をつけさせろ」 と叫んでいます。
でも、客観的に、昔と今で、明らかに違ってきているものは 何でしょうか?
それは、大学の全入時代に象徴される、 教育の供給過剰です。 昔は、近代的・科学的な知識は、学校から仕入れるしかなかった。 それが、今では、テレビ、ネットなど、いろんなところから、 自由に取れます。 幸せになる道も、一つではないことは、はっきりしてきている。
ここで、ふと、視野を広げてください。 供給過剰になって、モノが売れなくなるのは、 昔から、どの業種でも、当たり前のことだったではありませんか?
モノ不足の時代なら、どんな服でも、あるだけ幸せでした。 しかし、今、昔のように、どんなものでもありがたがって、買う客なんて 誰もいません。 だからこそ、メーカーやお店は、技術革新を繰り返し、 ユニクロをはじめ、時代の要請に応えたところだけが、 生き残ってきたのです。
自己革新をできなかったお店は、 たとえ老舗の百貨店でも、つぶれていくのです。
これを、客が変わったから、お客がなってない、って 怒ってどうなるのでしょう? かえって、喜ぶべきことです。
ひるがえって、教育に関するニーズそのものは、 決して、減少してはいないと私は、ひしひし感じます。 ただ、そのニーズに応える教育機関が無いだけです。 だって、教育「商品」は、10年前・20年前とほとんど変わっていないんですもの。 お客は、買いたい商品が無いのです。
もし、革新的に、ニーズをとらえた学校ができたら、 意欲にあふれた学生で、引っ張りダコになることは、目に見えています。
そして、そのニーズに合っているかどうかを 教育界は、どうしても、測ろうとしません。 なぜでしょう? 教える側が主役だという意識から、解放されないと 「生徒がこの授業を受けて、どう思ったか、どう感じたか?」 を聞けないのです。
さらにこの根底には、生徒は、自主的に学習しようとするものではない。 怠けよう怠けようとするものである。 だから、厳しく監視の目を光らせないと、楽な方向にばかり走ってしまう という先入観があります。
そして、これが、明治以来の学校教育を貫いてきた子ども観でした。 さらに、それは、政府が国民を見る国民観でもあります。
いや、違うんだ、子どもも大人も一人ひとりが 心の底では、より良く生きたいと思っているんだ、 と叫ぶ教育学者さんもいらっしゃいましたが、少数派です。
でも、そこに立ち返らないと、受講者本位の学校はできません。
そして、ここが肝心なんですが、 生徒に聞かないと、 科学的に判断できないのです。 科学的な授業改革もできないのです。 販売する側の意識調査では、本当のことは見えないのです。 消費者の意識調査でこそ、意味があるのです。
常に、生徒に、この時間、楽しかったか? おもしろかったか? タメになったか?と聞ける教師でありたいと 思います。
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