科学は確率でしかない
今、高校生のために、確率の授業の準備をしているところで思わず、また書きだしています。確率論は、ギャンブルから生まれたと言われています。確かにそうですが、これは、ギャンブラーの学問なんでしょうか?だとしたら、真面目な?諸君にはご縁がないのか?(ちなみに、先日仕分け人に、消されそうになった宝くじですが、サマージャンボの場合計算上、勝率は、10枚買った時が、10%100枚買ったときが、0.4%と、何と、枚数多く、勝負した方が、極端に下がります!) いやいや、一攫千金の世界じゃなく最も確実な世界だと思われている科学理論の根底にこそ、確率論がしっかり存在しているのです。いや、科学体系の生命線そのものなのです。 量子力学を持ち出さなくても、人間は、過去に起こったことが、未来にも同様に起こるだろうということを前提に物事を認識し、予測して行動します。(アインシュタインは、「神様はサイコロ遊びはしない」と言いましたがアインシュタインの信念を支持する証拠は挙がっていません) 植物も動物も、冬の後には、春が来るという予測の上に種を準備したり、孵化に備えるのです。でも、本当に、春は100%来るのか?そうじゃないわけです。 また、「うちの母ちゃんは、こういう人だ」、という認識は過去の行動を観察して、確率的に予測しているだけであって、明日の母ちゃんが同じ行動をとるとは、限りません。 科学理論も、結局は、過去に起こった諸事象を整理して、そのおおよその特性や傾向を理論化したものでしかありません。 それが未来に対して意味をもつためには、それまでの諸条件や諸環境が不変であるという前提が必要なのです。 確率の問題で出されるサイコロですが、あれも、完璧に1/6の確率の出目なんて、あるわけがありません。人間の目には、ほぼ立方体であるように見えるだけで、面積にの比を計算したら、1/100レベルでズレていてもそのゆがみを見抜ける人はほとんどいないそうです。 そして、前提の諸環境は、間違いなく、変化しています。 現実社会に生きる私たちは、このことを忘れてはいけません。どんなに精緻な学問としての確率論があっても、確率論が現実の変化に先立つものではなく現実の事象の変化の方こそが、確率論に先立つということを。 だから、確率論に支えられた科学の効用は、常に一定の限界が伴うのに、それが、万能の神として、科学教として崇められてしまっています。 さらに、科学や数学の基礎概念も、それが、基礎になればなるほど、あいまいなのです。1という概念、1+1=2ということも直線とは何かという定義もトートロジー つまり 同語反復でしかなくなります。「私は私であり、君は君である」のように、等値を示す語によって同じ言葉を繰り返しているに過ぎないのです。当然、論理学的には、無意味なものですが、表現技法としては、人に妙に納得感を起こさせる魔法があります。 それでも、現代人は、この科学の果実をいただいて発展しているわけです。 じゃあ、私たちは、この不確かで、仮説だらけの概念の洪水の中でどう生きていったらいいのだろう?それこそが、教育の目的の一つでしょう。 雑多な知識の中で、自分を見失わずに自分で自分を創り上げていく力なのです。 目指すは、主体性をもつ人間だと思います。