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はてなのゆりさん

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2015年06月19日
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カテゴリ:原発のこと



ある酪農家のご家族と牛さんたちの写真展

牛2色300.jpg

開催中の5月22日 早朝、NHKラジオ深夜便

『明日へのことば』 で、長谷川健一さんのお話 が

ありました。 それを たまたま聞いた Tさんが

テープに取り テープおこしも してくれました。

その ほぼ全文を 次に載せさせていただきます下矢印




わが飯舘村を語り継ぐ  

長谷川健一さんのお話


2015.5.22 NHKラジオ深夜便より

家



 福島県飯舘村の酪農家・長谷川健一さんのお話です。長谷川健一さんは61歳。
 現在、福島県伊達市の仮説住宅で避難生活を続けています。
 震災前は牛50頭を飼い、4世代8人の大家族で暮らしていました。
 しかし、原発事故で家族はばらばらとなり、今は妻の花子さんと両親の4人で暮らしています。

 長谷川さんは、事故の記憶を風化させたくないと
 全国をまわって、自らの体験を語り継ぐ活動を行っています。

 では「わが飯舘村を語り継ぐ」長谷川健一さんに
 ラジオ深夜便の佐治まきこデイレクターがお話をうかがいました。



四つ葉佐治 長谷川さん、5月の下旬というのは、酪農家の方にとってはどういう時期になるんですか?

花長谷川 そうですね、やっぱり梅雨の前、一番忙しい時期といいますか、
 牧草の刈り取りが始まる時期になります。
 1年分の餌、まあ一番質のいい栄養価の高い餌が取れる時期です。
 これが非常に忙しい時期になります。

四つ葉佐治 もう震災から4年以上がたちましたけれども、今 長谷川さん、どういう思いでいらっしゃいますか?

花長谷川 うーん、まず一番自分でも困るなあと思うのは、牛を忘れていく。
 自分は4年前まで酪農家をやっていたんだけど、
 絶対、自分では忘れないようにしようと思っていても、
 記憶から薄れていく、これが私は一番怖いなと。

 私も全国講演してますので、その中で北海道に行った時、
 主催者の方に酪農家を案内されて行った時に、匂い、ああ久しぶりに
 この匂い嗅いだなと、何かなつかしい思いがしたんです。

四つ葉佐治 飯舘村は全村避難を強いられましたけれども、ほんとに自然が豊かな、
 特に、これから初夏にかけては新緑がきれいなところですねえ。

花長谷川 そうですね、やっぱり山の恵みといいますか、そういうものにあふれていた村だったんだと。
 そして自然が美しい、それだけじゃなくていろいろなものを
 村人がみんなで作り上げてきた村と言えるんではないかと。

 もともと、冷害(?)とかそういうものに非常に遭いやすい村だった。
 それにも、どんどんみんなで頑張って負けずに作り上げてきた村ということで、
 やはり、ふるさとに対する思いというものが
 ことのほか強くなったんだろうなとそんな思いがします。

四つ葉佐治 作り上げたその人の中には長谷川さんもいらしたわけですね。

花長谷川 もちろんそうです。私の地区ではですね、ばんかり?というもの、
 自然の力で精米をするもの、早く言えば獅子おとしの大きい奴。
 獅子落としの先には大きな石臼を置いて、そしてその中に
 農家の人は玄米を朝入れて、そうすると夕方には白米になってる。
 そういうものが、地区には昔14ヶ所あった。まっ、今はありませんけどね。
 そういうものを、われわれがみんなで手作りで作り上げた。

 あとはですね、私の地区では蕨園というものをやった。
 農地が荒廃していくのを防ごうということで、
 蕨なんかもみんなで手入れをしながらやってきた。
 私の地区だけでもシーズンだけで千人くらいのお客が訪れています。

四つ葉佐治 あの震災の時ってどんな状態だったんですか?

花長谷川 そうですねえ、震災の時にはですね、まず、地震はものすごく大きかったですね。
 私も畑で農作業やってまして、畑が波のように地割れが起きて、
 もうびっくりして家に帰って、牛、どうしただろうかと
 最初に牛、家族のこと思ったんですけど。
 まあ、牛はすごい叫び声のような声あげてましたよね。
 それでも被害はなかった。
 ですから、飯舘村の場合は津波とか地震はそんなに被害はなかった。

 ただ、飯舘村にはあの当時、浜通りの人達、南相馬とか浪江町とかね、
 津波の被害の人達が、たくさん避難をしてきたんですね。
 そして、われわれ村人はその人達をみんなで炊き出しをやりながらケアをしていた。

四つ葉佐治 長谷川さんは地区の区長をしておられたんですね。

花長谷川 はい。私は当時、いのしし牧場をやっていました。
 それで、いのししの肉を出して、それから地区の婦人会の人達が
 野菜を持ってきてくれた。みな応援してくれた。
 たくさんのいのしし鍋をつくって、避難してきた人達に食べてもらった。
 当時、寒かったですから、あとは私も酪農家ですから牛乳を持って行って
 暖めて飲んでもらったり、みんなでケアをしていたんです。

四つ葉佐治 それが3月の11日とか?

花長谷川 そうですね11、12、13、それくらいですね。

四つ葉佐治 それで原発事故が伝えられたわけですね。

花長谷川 そうですね。ただその当時も飯舘は電気がなかった。
 3月11日から地震と同時に停電になって、
 そして、電気が通じたのが、13日の夕方だった。
 だから、そんなに情報もあんまり伝わらなかった。
 そんな中でも、少しずつでも情報は伝わりつつあったんですけれども、
 ただ飯舘では原発から一番近いところで直線で約30キロ、
 一番遠いところで約50キロ、離れているために
 飯舘は大丈夫だろうと、そういう思いでみんないた。

四つ葉佐治 それが大丈夫じゃないとわかったのはいつだったんですか?

花長谷川 3月14日ですね。
 私は区長ということもあり、常に役場の対策本部に出入りしていた。
 夜9時頃に役場に行った。
 役場の担当の人が、いやあ長谷川さん、今 飯舘がとんでもないことになってる、
 えらい線量が上がってる、ほかの人は誰も知らないと。
 あっ、これはこんなことではだめだなということで、すぐに私も家に帰ってですね、
 すぐに私の地区のお世話人と言いますか、班長さんがいるわけです。
 その人達にすぐ電話をかけて、3月15日放射能のことで
 緊急集会やるから全員地区の人を集めろと指示を出した。

 そして15日、皆が集まったんですね。
 ただ、残念なのはその時に雨が降っていた。
 そして、後に雪になった。
 あとでわかったことなんですが、その時に放射能がもっとも高かった。
 その時に、私は地区の人たちを集めてきた、誰もわからなかった。
 そういう後悔の念もありますけれども、そういう中で
 いろんな情報を入れた中で、防護対策と言いますか、地区の人に知らせました。

 外には出るなよ、特に子供は絶対外に出すな、あとは
 大人でもどうしても外に出なくちゃならない時は必ずマスクしなさいよ、
 肌を露出するなよ、そして外出から帰ったら玄関先で上着とか脱げよ、
 すぐに風呂にはいれよ、体をきれいに洗えよ、そして、
 外にある野菜とか食うなよ、そういういろいろな指示を出しました。

 私は3月16日の午前中に子供たち、孫たちを避難させました。
 その時すでにですね、放射能で我々飯舘村の酪農家はだめになるなと
 直感的に思いました。ですから、長男を避難させる時に
 ひょっとすると飯舘の酪農はだめになるぞと、長男には言った。

四つ葉佐治 長谷川さんのところはご長男とご次男が酪農を継いで?

花長谷川 長男は、元々調理師だった。
 子供たちには酪農を継げとか言ったことはなかった。
 酪農はおれと女房が始めたんだけど、
 今は酪農はどうしても上向きじゃないよと
 だからおれらだけで止めようなとそういう話はずっとしてた。

 長男は最初 調理師学校に行って、そして調理師になった。
 これでいいなということになったんだけれど、ある日突然もどってきた。
 そして、『おやじ、おれベコやる』と言い始めた。
 最初は信用しないっていうか、おれもびっくりしたんだけれども、
 じゃあ、ちょっとやらせてみようかとそんな考えでいたんですけども
 内心はうれしかったですよ。やらせておいたら一生懸命やって、
 そのうち息子も嫁さんもらって、子供もできた。
 じゃあそろそろ息子にまかせようとそんな思いでいた時だったんですね。

 次男はですね、会社員で、すぐ近くに会社があるんです。
 朝夕の仕事は手伝っていた。

四つ葉佐治 ちょうど震災が起きる前の年の12月に新しい子牛の牛舎も作られた・・・

花長谷川 そうです。

四つ葉佐治 完成したばっかりだったと・・・

花長谷川 いやあ、これ考えますとね、おれと女房で始めた酪農を
 これで止めようと思う時には規模拡大なんて考えないですよね。
 現状維持でいくわけですから。それが息子がといいますか、
 若い後継者がやりたいというと、なんかおれも勇気がわいてくるんですね。
 それで牛舎がほしい、よし、それじゃ作ろう、といいことで
 すぐに取り掛かったのが、地震の前の年の12月だった。
 ですから、牛はその牛舎に4ヶ月入って、そして、牛がいなくなった。






長谷川健一さん 『わが飯舘村を語り継ぐ』 

その2
  へ 続きます。









最終更新日  2015年06月20日 21時53分59秒
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