「ネガティブの微笑み」

2011/10/20(木)00:00

世界を豊かにするための戦い。

本日は映画監督さんと打ち合わせ。打ち合わせ自体は割とサクッと終わったので飲みに行き、最近お互いが観た映画について。実にたくさんの作品について語ったのだが、一番盛り上がったのがキング原作の「MYST」。「衝撃のラスト」と言われるだけあって、ひっじょーに後味の悪い映画だった。だが、僕はひっじょーに面白かった。原作とラストが違うのは知っていたが、監督に伺った所、撮影されながら作られたアイデアも多々あったらしい。そのどれもが「すげぇ」「おもしれぇ」と唸った箇所だった。しかしこの「MYST」、分かり易く賛否両論な映画だ。 まぁ、そりゃそうだろうとも思う。しかし、この賛否両論というのはなかなかに乱暴な言葉ではある。賛否両論というのはどんな作品でも当たり前のことだからだ。 良い所もあれば悪い所もある。自分が完璧だと思った作品でも、他者から観れば否定したくなる箇所だってあるし、「完璧過ぎてダメ」という意見すらある。 何が良いのか、何がダメなのか。それは行き着くところ個人の感覚に委ねられる。だが、最近強く思うのは「委ねられた個人は、その意見を戦わせていかなければならないのではないか」ということだ。義務、というのとはちょっと違う。大袈裟な言い方になるが、個人が、強いては人間が豊かになるために必要なことだと思うのだ。例えば「ヒーロー」という存在は、今やダークサイドが描かれることが当たり前になっている。ヒーローだって人間→完璧な人間はいない→だからダークサイドがある→ダークサイドがない人間には感情移入できない。とまあ、こんな理屈から来ていると思うのだが、こんな感覚は一昔前にはなかった。あるにはあったが世界全体での認知度は低かったはずだ。もちろん、ダークサイドが描かれないヒーローも今現在たくさん存在する。しかし、それは一昔前の「ダークサイドなくて当たり前」という感覚からくるものではなく、ダークサイド全盛(?)の時代からこそ「あえてダークサイドを描かない」という意志を感じる。  今や子供向けアニメですらその感覚を避けて通れなくなって来ている。それが良いことなのか悪いことなのかは分からない。でも、肝心なのはそれが是か非かを考える人間が増えたと言うことだ。「子供には悪意のないものを見せるべきではないのか」「子供にこそ現実を語るべきではないのか」「子供は現実など知っている」「知っているからこそ現実ではない世界を全力でつくるべきではないのか」「現実とは違う理想の世界を見せることで理想を実現させようと言う意志が生まれるのではないのか」あーだこーだ。どちらが正しいかを決めるため、ではなく、そういう考えがあることを知るために大きな声で互いの意見は提示していく。それによって考えや思考は多様化され、世界は豊かになっていくと思うのだ。 決まりきった概念や感覚だけがはびこると、世界はどんどん薄っぺらくなってしまう。子供に向ける作品はこういうもの。売れる作品はこういうもの。どんどん飽きていく。どんどんつまらなくなっていく。  考えを深める。悩む。追求する。進化する。そういう思考がなくなればほんとぅーに人生は単純にななってしまう。ほんとぅーに世界はつまらなくなってしまう。  面白いと思ったものは「おもしろい」と褒め讃えればいい。 つまらない思ったものは「つまらない」とけなせばいい。 だけど少しでも具体的に。なるべく自分の感覚を言葉にして。 きちんと声に出していくことが必要だと思うのです。  とまあ、ここまで言っておいてなんですが、長くなり過ぎたので「MYST」についての僕の具体的な感想はまた別の機会にします。(できれば誰かと話してユーストリームあたりで流したいくらいですが)完全な余談ですが、実家で両親が「MYST」のテレビ放送を観ようかどうしようか迷った時「すごくおもしろかったよ」と言って勧めたら、見終わった後に「お前ふざけるなよ」くらいの勢いで怒鳴られたのを覚えています。

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