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NOと言える三多摩~言泉「やまと」後悔日誌

NOと言える三多摩~言泉「やまと」後悔日誌

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言泉「やまと」

言泉「やまと」

2006.11.27
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カテゴリ:やまとことば
昨日の日記を書き込んでいるとき、ふと、あることに気がついた。
何かの拍子に『~ですね。』と書いた後、文体の不統一から表現を改めようとしたのであるが、この「である」体と終助詞の「ね」や「よ」は共起しない・・・という事実である。
つまり、『~であるね。』とか『~であるよ。』といった表現は極めて奇妙であり、通常の日本語母語話者であれば絶対に使わない言い方なのである。

もう少し掘り下げてみよう。
読んでの通り、この日記では「である」体での統一を心がけている。
会話体(話し言葉)ではなく文章体(書き言葉)に徹しているのは、この日記がそういう文体に親しみを感じる読者層を想定している(というよりも、そういう文体に親しみを覚えない読者層を排除している)からであろう。
つまり、万人に読んでもらうこと(より多くの読者数の獲得)よりも、興味のある人にだけ読んでもらうことを優先する、という戦略(社会言語学で言うところの「オーディエンス・デザイン」)である。
ブログというメディアが、そうした戦略を容認するかどうか・・・は、今のところ不明である。いやむしろ、それが不明であるからこそ、ブログという表現媒体の「本質」を知るための一つの実験場として、この日記を書き始めた・・・と言ってもいい。

さて、その「である」体が、終助詞の「ね」や「よ」を伴わないという言語現象は、何を意味するのであろうか。
終助詞の「ね」は、話し手と聞き手が同じ心情・認識を共有していること(または、共有したいという願望)を示すときに使われる。また、終助詞の「よ」は、話し手と聞き手の心情・認識が異なることを強調したいときに用いられる。「ね」はキャッチボール的な関係を志向し「よ」はドッジボール的な関係を志向するとも言えるが、どちらにしても話し手と聞き手の間の関係性を表明するものである。
ということは、「である」体は、そうした人間関係の表明を拒絶する、超越的な表現なのであろう。

しかし、書き言葉ではともかくとしても、話し言葉で「ね」や「よ」が使えなかったとしたら、日本語のコミュニケーション表現は相当にシンプルなものになっていたに違いない。
もっとも、その場合には、非言語的な表現方法がますます洗練されて発達する可能性も否定できないが・・・。





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Last updated  2007.11.21 15:50:30



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