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NOと言える三多摩~言泉「やまと」後悔日誌

NOと言える三多摩~言泉「やまと」後悔日誌

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言泉「やまと」

言泉「やまと」

2007.03.27
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カテゴリ:雑筆
ここ数日、気になっている人がいる。
いや、正確には、1993年4月14日(水)にNHK総合テレビの『歴史発見』という番組で放送されて以来、ずっと気になっているのであるが、ここ数日はその思いが特に強くなっている人物がいる。

その人の名は、長尾景虎。のちに政虎、輝虎と名を改め、最終的には入道して上杉謙信(1530~1578)と号するようになった人物である。

この人は、1530(享禄3)年に越後府中の春日山城で生まれた。父の長尾為景は越後の守護代に過ぎなかったが、守護を傀儡化して越後国内の実権を握ったほどの実力者であった。
その父が死去したのは、この人が7歳のとき。以来、兄の晴景が家督(守護代)を継ぐと同時に、この人は曹洞宗の林泉寺に預けられ、住職・天室光育の厳しい指導の下で仏門に入った。しかし、越後国内の動乱は鎮まらなかったため、この人が14歳のときに、晴景はこの人を還俗させて、越後中部の栃尾城主とした。
手に負えない越後の北方の豪族たちを巧妙な作戦で片っ端から平定していったこの人には、家中の信望が集まり、やがて兄の晴景との間で権力争いが発生した。1548(天文17)年、守護の上杉定実の調停により、越後守護代の地位は晴景からこの人へと譲られた。この人自身が望んだわけではなかったのに、結果として兄を追い落とす形となったことが、この人の心に深い傷を残した。

この人は越後国主として負け知らずの戦いを続けていくものの、国内では紛争が頻発し、家臣や親族の中でさえもごたごたの欲望の争いが絶えなかった。そんな世の中に絶望したこの人は、1556(弘治2)年に国主の座を捨て去り、寺に隠遁することを決意した。あわてたのはこの人の家臣や領国内の有力な武将たちであった。この人が国主の座を捨て去れば、国内は再び乱れ、他国の強力な武将に攻め込まれる危険性があったからである。家臣たちはこの人の復帰を願い出た。半年間の隠遁生活ののちに、この人は復帰した。

甲斐の武田信玄(1521~1573)に領土を奪われた信濃の武将たちが、助けを求めてきた。この人は、「力によって土地を奪い取ることは不当である。侵略された者が頼ってきた以上、それに応えることこそが正義である」との思いから、5度、12年間にわたる(とされる)川中島合戦へと出陣した。
また、同様に関東では、伊豆・相模・武蔵・上野を支配する北条氏康(1515~1571)らが侵略行動によって領土拡張を繰り返していた。この人は1561(永禄4)年に小田原城を包囲したものの、うまく攻めることができなかった。その帰り際、鎌倉の鶴岡八幡宮で、上杉憲政から上杉の名跡と関東管領職を譲られた。「東国の秩序を回復する」という使命感に燃えるこの人の関東出兵は、結局14回に及んだ。

この人には領土欲というものがなく、いずれの戦いにおいても、出陣は私利私欲によるものではなかった。土地を奪い取られた武将たちからの要請を受けて、旧秩序に戻して平安な状況を作り出すために、世の中の秩序を乱す者を倒すという大義名分の下での、やむにやまれぬ行動であった。しかし、ただの一度も敗戦を知らない戦の天才であったがゆえに、同じパターンの行動を何度も何度も繰り返し、全く利益がないのに苦労を買い続けることになる。

武田信玄との対抗上、この人は尾張の織田信長(1534~1582)と同盟関係にあった。が、信玄の死後、両者の関係は大きく変化し、1576(天正4)年になってついに断交する。その翌年、能登七尾城を攻略して加賀に進み、手取川で織田の軍勢を打ち破ったのが、この人の最後の出陣となった。
北条討伐(関東出陣)とも織田軍との対決とも言われるが、1578(天正6)年、最大級の軍勢を動員しようと準備している最中に病に倒れ、そのまま急死した。享年49。死因は脳卒中と見られている。

私もさまざまな苦労を背負い込み、そうした「被害妄想」から、ここ数日の間は、世の中に少しばかり絶望しつつあった。そのせいか、この人の境遇には強い共鳴を覚えてしまうのである。
また、この人が最後に戦った能登・加賀において大地震が発生し、国指定史跡の七尾城跡の石垣の一部が崩れたことも、この人の生き方を思い出させる原因の一つとなった。





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Last updated  2007.11.21 17:54:23



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