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カテゴリ:読書
関東南部では、昨日の昼過ぎまでは晴れていたが、接近しつつある台風第9号(フィートウ)から南の暖かく湿った空気が流れ込んでいるために、昨日の夕方からは断続的に雷雨に見舞われている。三多摩の府中のアメダスによれば、昨日の日最低気温は22.1℃(05:50)、日最高気温は31.5℃(12:30)、そして今日の日最低気温は24.7℃(11:50)、日最高気温は27.9℃(10:30)であった。
さて、実は一昨日の日帰り旅行に出る前に、一冊の書物を読了している。 そこで、今日の記事では、その内容を紹介してみよう。鈴木眞哉氏の『戦国時代の大誤解』(PHP新書)である。 時代小説やそれに基づくテレビドラマ(ひいては、世間一般あるいは学界ですら常識として信じられている歴史認識)には、史実とは異なる通俗的なフィクション(虚構)が数多く紛れ込んでいる。では、そうした通説はどこがどのように間違っているのか。その誤解の代表的な例を取り上げているのが本書である。 第一章の「怪しい人たち」って・・・ショッカー(世界征服を企てる悪の秘密結社)の改造人間を思い出してしまうのは私だけであろうか。それはさておき、たとえば今の大河ドラマでおなじみの山本勘助については、『甲陽軍鑑』には武田信玄の重臣として登場しているが、その『甲陽軍鑑』は勘助の息子が書いたとされ、軍師的存在として大活躍する勘助の実像は江戸時代からずっと疑問視されてきた。信玄の部将・山縣昌景の下にいた歩卒に過ぎなかったとの説もあったが、近年、古文書が発見され、信玄の側近の一人として他国の豪族に派遣されたことが確認されている。とは言え、戦国時代には、参謀長のような「軍師」ポストはまだ存在せず、後世の軍学者たちが自分たちに都合よく言い出したものであろう・・・と、本書では指摘されている。 で、この川中島の戦いに関しては、武田方の『甲陽軍鑑』と上杉方の「川中島五箇度合戦記」とで、前者が1561(永禄4)年9月10日、後者が1554(天文23)年8月と、時点からして違う上に、信玄・謙信の一騎討ちについても状況が異なる。前者の『甲陽軍鑑』では上の画像のように謙信が信玄の本陣に突入したことになっているが、後者の「川中島五箇度合戦記」では信玄の影武者(!)と謙信が川中に馬を乗り入れて馬上で一騎討ちをしたことになっているほか、信玄の本陣に突入して大将に斬り込んだのは謙信ではなくその家臣の荒川伊豆守であったとされている。 が、どちらも信憑性に乏しく、後世の創作である可能性が否めない。そもそも当時の馬は今日ではポニー程度の大きさしかなく、重たい鎧武者を乗せて猛スピードで突進することはありえなかった。馬は戦闘手段というよりは、むしろ人や物を運ぶ輸送手段として役に立ったようである。鎌倉時代には文字通りの「騎馬武者」が馬上から弓を射ていたが、両手で操る槍の普及に伴って、戦国時代には戦闘に先立って下馬することが多くなったと考えられている。戦場で馬を使うのは、逃げる敵を追いかけるときと、自分が逃げるときくらいであったらしい。 なお、本書ではないものの、かつて私が読んだ三池純正氏の『真説・川中島合戦 封印された戦国最大の白兵戦』(洋泉社新書y)によれば、武田方も上杉方も犠牲の多い決戦を望んでいなかったのに、濃霧の中でたまたま鉢合わせをした両軍が、偶発的に戦闘状態に陥って大量の戦死者を出してしまったのが真相ではないか・・・と述べてあったように記憶している。つまり、意図せざる乱戦の実態を隠蔽するために、粉飾されたストーリーが後で加えられた・・・というわけである。 いずれにせよ、歴史的な事実というものは、面白おかしく伝える娯楽としての講談や、権力の正統性を示す神話などのように、(自分たちや権力者などの)誰かに都合のよい「物語」として、後世の人間によって書き換えられてきたのである。メディア・リテラシーというか、ヒストリー・リテラシーのようなものを、身につける必要があるかもしれない。「物語」は「物語」として受容(もしくは批判)しつつも、「史実」は別のところにあると考えるべきであろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.11.21 20:42:45
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