[VOYAGE-249] 三多摩小旅行/町田市鶴川の旧白洲邸・武相荘。【2007.07.28 23:54:34】
今日は晴れのち曇り。三多摩の府中のアメダスによれば、今日の最低気温は23.1℃(05:20)、最高気温は33.1℃(13:10)。5日連続の真夏日で、かなり蒸し暑く感じられる。さて、今日は、思うところあって、JR南武線の登戸で乗り換えて小田急小田原線の鶴川まで足を運び、その後、町田の東急ハンズで買い物をして帰ってきた。新百合ヶ丘まで来たとき、あまりの暑さに、このまま町田まで行って買い物だけして帰ろうか・・・とも思ったが、どうにか初志を貫徹した次第である。で、その鶴川で下車した目的は・・・旧白洲邸・武相荘を訪れることであった。以下は、受付でもらった「しおり」からの転記である。白洲 次郎 1902~1985兵庫生まれ。若くしてイギリスに留学、ケンブリッジに学ぶ。第二次世界大戦にあたっては、参戦当初より日本の敗戦を見抜き鶴川に移住、農業に従事する。戦後、吉田茂に請われてGHQとの折衝にあたるが、GHQ側の印象は「従順ならざる唯一の日本人」。その人となりを神戸一中の同級・今日出海は「野人」と評している。日本国憲法の成立に深くかかわり、政界入りを求める声も強かったが、生涯在野を貫き、いくつもの会社の経営に携わる。晩年までポルシェを乗り回し、軽井沢ゴルフ倶楽部理事長を務めた。「自分の信じた『原則(プリンシプル)』には忠実」で「まことにプリンシプル、プリンシプルと毎日うるさいことであった」と正子夫人。遺言は「葬式無用、戒名不用」。まさに自分の信条(プリンシプル)を貫いた83年だった。白洲 正子 1910~1998樺山伯爵家の次女として、東京に生まれる。父方の祖父・樺山資紀は薩摩出身の軍人・政治家。正子も、自分に薩摩人の血が流れているのを強く感じていたという。幼時より能に親しみ、14歳で女性として初めて能の舞台に立つ。その後、アメリカのハートリッジ・スクールに留学。帰国後まもなく次郎と結婚する。互いに「一目惚れ」だった。戦後は早くより小林秀雄、青山次郎らと親交を結び、文学、骨董の世界に踏み込む。銀座に染織工芸の店「こうげい」を営み、往復4時間の道を毎日通っていた。この店からは田島隆夫、古澤万千子ら多くの作家が育つ。青山に「韋駄天お正」と命名されるほどの行動派で、自分の眼で見、足を運んで執筆する姿勢は、終生変わらなかった。旧白洲邸 武相荘(ぶあいそう)オープンにあたって 父・白洲次郎は、昭和十八年(1943)に鶴川に引越して来ました当時より、すまいに「武相荘」と名付け悦にいっておりました。武相荘とは、武蔵と相模の境にあるこの地に因んでまた、彼独特の一捻りしたいという気持から無愛想をかけて名づけたようです。 近衛内閣の司法大臣をつとめられた風見章氏に「武相荘」と書いて頂き額装して居間に掛けておりました。 私は両親を親としてしか見たことがなく、同じ様に私が育ち、両親が人生の大半を過した現在の茅葺き屋根の家に対しても、ただ家という認識しかありませんでした。 ふと気が付くと近隣は大きく様変りしていました。暗くなるまで遊んだ小川、真赤に夕焼けした空にたなびくけむり、あちこちに、ひっそりと咲いていた野花の数々など、すべて姿を消していました。また点在していた茅葺き屋根の家々もほとんどみることがなくなりました。同時に私の両親の様な人々も消え去っていきました。 ただそのものとして見ていた茅葺き屋根の家や両親の様な人々が既にあまり残っていないのではないかと思うようになりました。 六十年近く一度も引越しもせず、幸か不幸か生来のよりよくする以外現状を変えたくない、前だけ見て暮したいという母親の性格のせいか武相荘は、それを取りまく環境を含めほとんど変っておりません。 このたびいろいろな方々の御力添えによって、過ぎ去っていった時代を皆様にも偲んで頂きたく、旧白洲邸武相荘をオープンいたしました。牧山 桂子ところで、私がここを訪れようと思った経緯については、いくつかの段階がある。まず、昨年、NHK教育テレビの『知るを楽しむ 私のこだわり人物伝』という番組で、既に政界を引退した細川護煕氏が、白洲正子氏のことを回想しながら語っていく・・・というものがあった。この細川氏は、内閣総理大臣としては大した業績を残していないとは言え、やはり「55年体制」を崩壊させた1993年8月の連立政権の立役者として、私個人は高く評価しているのである。その番組で取り上げられていた彼女に興味を持ったのが、最初のきっかけであった。その後、「戦後レジームからの脱却」が声高に叫ばれる中で、敗戦後のGHQ占領下で日本の再出発に尽力した在野の人物として、白洲次郎氏を再評価する動きが出てきた。彼に関する本が書店で平積みで売られるなどの現象はそれを雄弁に物語っているが、そうした動きに影響されて、私自身も関心を抱くようになったのである。いずれにせよ、明日のために、1993年7月18日の衆議院議員総選挙に思いをはせるのにふさわしい場所を訪れておきたかった・・・というのが、真相であるかもしれない。