福島県の心情? 私の心情?
先週 地元の福島の友人に会いました彼は生まれも育ちも福島県福島市なのですが出張で東京に来ることになったので 久しぶりに会う事になったのですそこで出た話題は20年ほど前の懐かしい話ばかりでしたが急に 話題が放射能濃度の話になったら何も聞いていないのに「オレはやっぱりこの土地を離れらんないな――」と一人かみしめるようにいっていましたその数日前 福島県の郡山市に住む友人と電話で話しましたその時も話題が急に放射能濃度になり「うちは自宅の庭が1μSで 近くの林は4μSあったんだけどオレはここを離れらんないな――」といってみました二人とも私が何も聞いていないのに そう言うんです原発30km圏内にある集落へ行った際ほとんどの方は住んでいなかったですがJA前の広場のような場所で年配の男性がふたりで話しこんでいました街のお店は全てシャッターがしまっていたのでこの街のお店はどこも営業していないのかとうかがったら午後には開いて営業しているお店もあると必死に説明してくれました私がその時に感じた個人的な感覚ではその方たちは自分たちの住んでいる土地は放射能で汚染され住民も減り 街に来てくれる人も減ったけど自分たちはなんとか持ち直させたいという気持ちを感じましたわたしは彼らにいいたい事は「愛しています」だけでした彼らは彼らなりの道を歩んでいるのでしょうわたしは自分から望んでいないのにこういった福島県の方の意見を耳にする機会を頂いた事には強い必然性を感じていますこういう場合の体験は 強く私の人生の進化に直結しているといつも感じますいま福島県では 避難するか 留まるか で意見があるようですがわたしは福島県から避難するにしろ 残るにしろ反対はしないのですがただ人はいつも感情と思考で争いを起こし苦しんでいるんだと感じるばかりです人はやりたい事をするために生まれてきて長生きする事だけを目的で生きている訳ではないしいまの私たちの科学や常識はたかがしれているものでもあるし人は意見を押し付けられて生きる時代ではなくなってきているし押し付けられて得た喜びは表面的なものでしかないかもしれないし人はどんどん表面的ではなく全体的な視点を持ち始めている時代ですし人間という名の私たちがより自分に愛を与え 自由に生き周囲に愛を放ち 善悪の判断なく 手を取り合いみんなで調和の世界をきずくことを考えていくと被爆地に残ろうと避難しようとそれはあまり重要ではないかもしれないとも感じますですが ただそんな彼らを避難させたいと願う方々も善悪の判断なくどんどんやりたい事を進めていかれてほしいです彼らも今までの人類の枠を外す役割りを持たれていると感じるのですただ たいていの人間は感情と思考にふりまわされておりその二つもたいては足並みがそろっていないのです思考は「避難しよう」 感情は「留まろう」となっている方は多いのではないでしょうかそしてそう言う場合人間は変化から 恐れや心配を感じることが多いため環境の変化を拒む事が多いと感じるのですこの件は私が体験したことを基にした意見で誰かに押し付けたい訳ではないですが体験が人を育て 導くことは 世界中に人にあてはまるだろうと感じています福島に残りたい方は残ればいいとおもいますが避難させたいと願い行動している方はその意識が自分の心配の押しつけではなく愛によるものでしたらこの気持ちはエゴかもしれないとか善悪の判断はせずぜひ進めて頂きたいとおもっていますただ それには人間の感情や思考を理解することがなにかのカギになるとは思っています人は理屈でばかり動かないのですから今までの私たち人類が生きるために使ってきた論理性だけではあまり説得の役にはたたないだろうとおもうのですそして この事を機会に人類は生きるために使うものを これから新しく変える時期に入っていると個人的には感じるのです愛と共に聖龍ホームページ ヒーリング アシュラム