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2005年06月29日
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前回の日記「秘密結社」の続きになります。毎度のようにビルダーバーグに関する部分を抜き出して紹介(転載・保存)します。




リップルウッドとビルダーバーグ会議

ネオコン人脈も蝟集する世界最強の秘密結社ビルダーバーグの真実



EUやNATO関係諸国と合衆国を連結するビルダーバーグ

国際会議を開くのに、ホテル全体を借り切るのは分かる。しかし、従業員やガードマンまで自前で連れてきて、借り切るのはホテルの建物だけ、それも会議場はもとより全室徹底的に盗聴装置の有無の点検と排除をやり、普段詰めているホテル側の従業員やガードマンは全員、会議期間中は休みをとらせ、ホテルに近づけないし、関係者はコンピューターに指紋が入力してあるので闖入者は直ちに発見され、手錠をかけられ収監されるか、逃亡を図れば銃撃される──こんな国際会議があるのである。それが「ビルダーバーグ」だ。

むろん、メディアも近づけない。会議の中身はもとより、出席者まで秘密厳守。こうなれば、「一時的秘密結社」としか言いようがあるまい。当然、陰謀史観論者には恰好の「陰謀機構」として扱われてきた。

アメリカの秘密結社と言いにくいのは、これを造ったのがポーランド人、彼がシャッポに頂いたのがオランダの王室だからである。従って、会議に呼ばれるのは大西洋をはさんだ欧米の指導者たちになる。その点、英米絡みで発足したRIIAとCFRよりは、他のヨーロッパ諸国を含むので、今日のEUやNATOを組み入れた広がりを持ちうる。

だからこそ、陰謀史観論者らの間では、「いよいよロスチャイルドとロックフェラーが手を組んで『世界統一政府』の実現に乗り出した」と喧伝された。

ただし、それ以外の地域は原則として入らないので、次に触れる「日米欧委員会」へと発展する前段階の過渡的なものだとも言えよう。ちなみにビルダーバーグにはオーストラリアは入れたのに、日本は地域外という理由で入れなかった!

発足は1954年、5月29日から翌30日のわずか2日間、オランダの片田舎イースターベークにあるビルダーバーグ・ホテルを右の調子で借り切って行われたのが組織名の由来にもなった。総合司会はオランダのベルンハルト公である。

前述の「壮大な地域」戦略にもかかわらず、1950年代に入ると、早くも合衆国のヨーロッパ関与は低下し始めていた。ビルダーバーグは、米側若手幹部のヨーロッパ政財界という舞台への登竜門に活用され、「合衆国大西洋審議会」など公的な機関を補完する非公式な機能を期待されたのである。

もっともこの時期、赤狩りが進行中で、これまた一種の陰謀史観であることは前述した。赤狩りとの因縁は、ビルダーバーグ・ホテルでの最初の会議に出たC・D・ジャクスンがこう発言したことだ。「マッカーシーが暗殺の銃弾に倒れようと、生体から腫瘍を切除する通常のアメリカ式手続きで排除されようと、ここに予言します。次回のビルダーバーグまでには彼はアメリカ政治の表舞台から消えているでありましょう」。ジャクスンはCIAの心理戦争担当幹部で、米側のビルダーバーグ国際推進委員だったが、肝心なことは、彼の予言は後に実現したことである。1980年代、反ウーマンリブの女性側闘士となるフィリス・シュラフリーは、ビルダーバーグが「事件を企み、見かけはただ起こっただけと見せかける」と書いている。近年の例では、「仏国民戦線(NF)」のジャン=ル・ペンの失脚にもビルダーバーグが関与したというのが陰謀史観論者の定説になっている。この国粋主義政党が15%の票をとったとき、「自由貿易」を唱え、「グローバライゼーションの高僧たち」と呼ばれてきたビルダーバーグ側は仰天、彼を標的にしたというのだが、事は選挙である、どう「標的にした」のか?

ビルダーバーグにはメンバーはいない。毎年違う開催地で、D・C・ジャクスンもその1人である非公式な「国際推進委員会」の諮問に応じて、ベルンハルト公が80名から100名ほどの招待者リストを作成、欧米から彼らが集まって開催された。三分の一が官庁と政界、残りは金融、企業、労組、教育、メディアなどの幹部からなる(メディア自体は会議場からシャットアウトだが、近年物故した『ワシントン・ポスト』のキャサリン・グレアムのようなメディア関係者やABCの「世界のニュース」担当のピーター・ジェニングズのようなスター・キャスターらは他言無用を受け入れれば招待されるのだ)。しかし、彼らはあくまで「一私人」として出席するのであって、それぞれの組織団体を一切代表しない。公式言語は英語と仏語である。

ところが、ロバート・エリンジャーというアメリカ人ジャーナリストが調べてみると、米国務省や英外務省は、会議出席者の旅費を出していることが分かった。その中には、「共産中国の国境を越えた最初のアメリカ人高官」とふざけた、後のCFR会長で中国大使、クリントン政権の国務次官補、ウィンストン・ロードもいたのである。

国際推進委員会は、ヨーロッパと合衆国にそれぞれ名誉事務総長を置いたが、前者には後述するビルダーバーグの仕掛人、ヨーゼフ・レティンガー博士、後者には諜報部門や安全保障部門の人物が関与、特に「スティムスン・グループ」、そしてCIA幹部、CFR機関誌『フォーリン・アフェアーズ』編集長のウィリアム・バンディが二代目で就任した。マッカーシーがCIAに「赤狩り」の矛先を向けたとき、彼の凋落が始まったと言われるが、トルーマン政権の国務長官だったディーン・アチスンの女婿バンディは、ニクスンの赤狩りでしとめられた前述のアルジャー・ヒスを守ろうと死力を尽くした。

国際推進委員会には、ここが不思議な点だが、米側ではキッシンジャーは、無名のハーヴァード教授時代から出ている。青田刈りの印象が強い。推進委員ではないけれども、クリントンもアーカンソー州知事時代から会議に呼ばれ、その直後、大統領選に出馬して当選しているのである。これも青田刈りとして、陰謀史観論者が騒ぎ立てる。


ビルダーバーグ創設者レティンガーと「ヨーロッパ合衆国」

ビルダーバーグは本部を持たない点が秘密結社としては異色だ。さらに、舌禍を恐れて発言が端的さを欠かずにすむよう、記録は一切とらないというのだが、それでは討議内容が忘れられてしまう。動議提出、議決、政策公表も行わないという。

しかし極秘事項として、初回会合の決議事項が残されているのだ。傑作なことに、これらのデータは陰謀史観論者らが、潜入させたスパイその他、あらゆるコネを通して収集しているのである。第2章のスカル&ボーンズの情報が、この有名クラブに嫉妬した他のクラブの学生が「墓陵(ザ・トゥーム)」に侵入して盗み出した資料に依存しているように、秘密結社情報の出所には共通性がある。

ともかく、それによれば、こうある。「長期の計画、現今の危機の彼方を展望する国際秩序を展開させることについては、従来は十分な配慮がなされてこなかった。時至れば、世界の出来事に対するわれわれの観点は全世界に拡大されてしかるべきである」。「国際秩序」という言葉には、陰謀史観論者らは舌なめずりしたことだろう。「現今の危機の彼方を展望する国際秩序」を見通すには、相対立する見解が共通の広場で戦わされることが前提となる。その意味では、CFRの精神が踏襲されているわけだ。

舌禍を恐れないで機密事項まで口にするらしいことは、1971年のビルダーバーグの後で、ある大統領側近が一部の国内外の実業家らにニクスン政権の経済凍結の情報を漏らし、15ないし20億ドル稼がせたとか、ニクスン訪中を漏らし、対中貿易に一足早く手を打たせたという告発となって表れる。この「側近」は、キッシンジャーと見られている。

「現今の危機の彼方を展望する」側面は、例えば、第3回会議(フレーデンスボルグ、デンマーク)では、早くも国連においては第三世界諸国の参加で欧米側の支配が停止される懸念が議題に上り、ソ連が猛烈な経済発展にもかかわらず消費が欧米の半分以下だから(つまり余剰が軍事力競争にまわされている)、NATO諸国の政経および文化的連携を強調することで対抗すべきだとする主張がなされている。

過去半世紀の結果で見ると、ビルダーバーグに呼ばれた人物の大半が、その後、前述のキッシンジャーやクリントンのように、各国政財界その他で一層頭角を表している。歴代英首相のすべてが、首相になる前にビルダーバーグに出席した。ジスカール・デスタン首相は蔵相時代に出席、ヘルムート・シュミットは1974年の会議に出たとたん、首相になった。ケネディは国務・国防両省の高官を、「ビルダーバーグ同窓生」から選んだ(これはCFRとダブる)。後述するカーター政権は、「日米欧委員会閥」が有名だが、結果的に「ビルダーバーグ閥」でもある。

前述のエリンジャーは、1977年4月、イングランド南西部のリゾート、トーケイでビルダーバーグが開かれる前日、会場のインペリアル・ホテルに投宿、深夜、会議場に侵入して、ビルダーバーグの会議槌を失敬したものの、翌朝、米のシークレットサービスと英側の警察特殊班に退去を命じられた。同ホテルの長年のなじみ客ともども追い払われたのである。

傑作なのは、1976年、ベルンハルト公が田中角栄を倒したあのロッキード疑獄に巻き込まれ、ヴァージニアのホットスプリングズでの会議がビルダーバーグ始まって以来初めて中止になったことだ。公は辞任、元英首相の貴族ロード卿(アレック・ダグラス)と交代、以後は数名の委員長が交代している。

では、ビルダーバーグを造りあげたのはどんな人物だったのか? ヨーゼフ・ヒエロニムス・レティンガー博士は、1888年、ポーランドのクラコフ生まれ、ポーランド貴族の庇護を受けたのは、後々、ベルンハルト公始め、ヨーロッパの王侯知見にとり入る才能の早いめざめと言えた。この庇護のおかげで18歳でパリに出て、ソルボンヌで医師免許を取得、以後、両大戦の狭間で辛酸をなめる母国のため、英仏の上層部にコネを造り続けた。

1924年、レティンガーは初めてヨーロッパ統一を思いつき、主に英政界で動き始めた。第二次大戦では、ロンドンのポーランド亡命政権に関与、母国の地下抵抗運動とも現地で連絡をとるなどしていたが、戦後、1946年5月、英側のCFR、RIIAで早くもソ連の脅威について講演、これが「ヨーロッパ運動(EM)」の口火となった。1948年7月、チャーチルらと渡米、「アメリカ統一ヨーロッパ委員会(ACUE)」を立ちあげた。ナチスをアメリカの助けでやっとのことで下したチャーチルが、押し寄せるソ連の脅威に対抗して「ヨーロッパ合衆国」の形成を主張したのは有名だが、その背後にはこのレティンガーがいたのである。ACUEには、例のアレン・ダレス、そしてCFR理事長ジョージ・S・フランクリン二世(デーヴィッド・ロックフェラーとハーヴァード同窓)が関与、多少の援助を行っている。

レティンガーがビルダーバーグを思いついたのは、NATO諸国間でのリーダーたちの交流と意見交換の場としてであり、EMのオランダ人幹部の口利きでベルンハルト公の担ぎだしとなった。合衆国のとりこみを図るべくレティンガーらが渡米、アイゼンハワー大統領、デーヴィッド・ロックフェラーその他と会談、特にアイゼンハワー政権の心理戦争担当の特別補佐官に任命されかけていた前述のジャクスンと下ごしらえを手がけ、前述のビルダーバーグ・ホテルでの最初の会合となるのである。霊験あらたか、この翌年の会議(西独ガルミッシュ)で「欧州共同体(EC)」の早期結成が強調され、ついにEC設立条約、「ローマ条約」(1957)の成立を見た。







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最終更新日  2005年06月29日 21時42分05秒
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