吾が輩は野良猫である

2012/12/09(日)16:34

歌舞伎の開拓者。

ニュース(134)

   12月5日、体調を崩しベッドに臥せっていた。昼時、テレビの電源を入れると飛び込んで来た「中村勘三郎さん死去」のニュース。  まさかとは思ったが、それは紛れもない事実であった。中村さんは確か12時間にも及ぶ食道がんの手術も成功し、回復の途上にあった筈である。  そのような大手術にも耐え抜く体力と気力を持ち合わせながら何故、亡くなってしまったのかとその死因について疑問が残るばかりであったが、ニュースの詳細に耳を傾けている内に、直接の死因が癌ではないことが分かったが、それはあまり聞き慣れない病名だった。  急性呼吸窮迫症候群(ARDS)を簡潔に言ってしまえば「肺炎」が悪化した状態であるが、肺炎が原因で死亡する患者の殆どは体力、抵抗力の弱ったかなりの高齢者の場合が多い。  順調に回復し院内を歩くまでになり、退院する日も時間の問題と思われていた筈なのに、そんな中村さんの身に一体何が起きたのであろうか。  病魔は影を潜めつつ足音さえ立てずに忍び寄て来る。まるで弱い者いじめの様にその対象を見つけると瞬く間にとり憑いて来ては、死の淵へと追いやって行く。  闘病は生きる為の病との闘いであるが、時としてそれは生きる為ではなく死ぬ為に生かされる場合もある。  わたしの親友も数年前に食道がんで他界したが、彼は余命3ヶ月を約半年延ばして逝った。彼との最後の言葉は「近い内にまた会おう」だった。   彼との約束を果たせぬまま、わたしはいまだに彼の携帯の番号を残したままである。40年以上に渡り心臓病と闘っているわたしであるが、余りにもそれが長す ぎると闘病そのものが生活の一部に溶け込んでしまい自分が病人だと気付かない時さえある。それが幸か不幸かは別として。  歌舞伎の世界に新風を吹き込み常に歌舞伎の立役者だった中村勘三郎さんは、幅広い芸風で歌舞伎の世界だけに留まらずあらゆるメディアを通してそのエネルギッシュな姿を思う存分に発揮し、わたしたちを大いに楽しませ感動を与え続けてくれた。  日本だけでなく中村さんの歌舞伎は世界にまで羽根を伸ばし、アメリカ、ドイツ、ルーマニアなどで公演し大成功を収めている。  歴史の長い歌舞伎の伝統を継承しつつ、常に斬新なスタイルで見る者たちを魅了して行くその姿は、歌舞伎界の開拓者とも言えるのである。  最後の舞台は2012年7月まつもと市民芸術館で行われた「天日坊」の千秋楽に源頼朝役で出演したのが最後であった。  わたしは取り立てて歌舞伎に詳しい訳ではないが、静と動の織り成すその融合的美学の真髄がこの歌舞伎に在ると思っている。日本の歴史的美学の代表である歌舞伎は、鎌倉・室町時代に大成した狂言や能と同じように江戸時代に花開いた演劇である。  「歌」は音楽、「舞」は舞踊、そして「技」は演技・演出となっており、まさしくこの三大要素の集大成が歌舞伎であり、総合芸術として完結されている。  日本では最も古い歌舞伎の歴史を受け継いでいるのが中村座であり、亡くなった中村勘三郎さんは18代目勘三郎でもあった。  中村さんがARDSに陥った時、病院を2回も転院するなど、医療スタッフも何とかこの国宝級の患者の命を繋ぎ止めようと必死であっただろうことは想像が付く。  然し、死の魔手はそう容易く中村さんの身体から離れて行ってはくれなかった。それにしてもまだ57歳と言う年齢は余りにも早すぎる。これからまだまだ活躍する場は幾らでもあっただろうし、わたしたちもまたそれを望んでいた筈である。  つい最近、森光子さんの訃報について記事を書いたばかりだと言うのに、こうして再び悲しい知らせを耳にすると、凍える冬の彼方から中村さんの慟哭が聞こえて来るような気がしてならない。最も無念だったのは中村勘三郎本人だったに違いない。  謹んで中村勘三郎さんのご冥福をお祈り申し上げます。

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