ユンボマスターはかくだだ漏れる
商用エロブログのトラバ張ってくヤツみんなしね! ちゃ~♪ お、たむけんだ。 眠いのに眠れないのでだだ漏れだだ漏らしです。 憂鬱人生送っている僕人生論的なアレなんですが。 まぁあんな事言い出したキッカケは分かりやすいくらい分かりやすく、「ユーチュル (貴殿) はそれがしのことを都合良く利用しているだけでおじゃろう」 という趣旨のことを言われたりしたりした、よーな事が、あったり、なかったり。なかったかな? ないない。 無いけど、そんな感じなんじゃないの!? みたいな事がいつぞやあったりなかったりまして。 それにたいして、僕はすごーく嫌な気持ちになったわけですよ。 有り体に言えば、「責められている」 と感じた。 そしてそれを 「不当な糾弾だ」 と、感じたので、いゃ~な気持ちになった。 ま。 そういうのがまず経緯としてあったワケですよ。整理をしますと。 で。 重要なのは ――― つまり問題の根幹の一つとしてあげられる事は ――― 「それが事実かどうか」 では無く、双方がどうお互いの関係を認識しているのか。 そして特に僕自身が。 罪悪感を持っていたのだ、という事です。 罪悪感があるから、「おめはおらの事てきとーに利用しているだけだろべ」 と言われて、笑い飛ばせなかった。 で。 前回のアレになるわけです。 人間関係なんてのは、本来 「利用し、利用され合うこと」 でしかない。 これは僕は、歴然たる事実だと思います。 利用という言葉にたいして感情的、感傷的な否定があろうと無かろうと、やっぱり僕はこれは一つの事実だろうと。 「一緒にいると楽しい」 だって、「楽しい感覚を得るために利用する行為」。 物理的なカタチ、即物的なカタチで現れなくても、何等かを得るために関わるという行為は、やはり利用と呼ぶのが妥当でしょう、と。 だから。 「利用している」 と言われたら。 「そうですよ。そうスよ。利用してるスよ。お互い、良い具合に利用し合っているスよ」 とレスポンスすれば良いだけの話ではあるんですよ。 理屈で言うならば。 ただ。 じゃあ何故、僕は 「罪悪感」 をもっているのか、です。 道理においては、何等間違っては居ない。 それはワカル。 けれども、やはり僕はどこかで 「罪悪感」 を感じているし、「負い目」 を感じている。 そこを、またも 「リクツ」 で言うならば。 敢えてリクツで言うならば。 ダール・イ・レゼベール。与え合う、受け取り合う、ギブアンドテイクの関係。 それが “愛よ” とは、上様の今際の際の言葉なのですが。 ありていに言って、もの凄くシンプルに。 僕の感じている 「罪悪感」 の大本の一つは。 「僕が与えているモノより、受け取っているモノの方が大きいのではないか? 相手にとって、負担になる様なものばかり与えているのではないか?」 という疑念なわけです。 だいたい。だいだい。ぽんかん。きんかん。きんかんアタマ? それが正しいか、何が正しいかは知りません。 ただ、言われて嫌な気持ちになる裏にあるのが罪悪感で、その罪悪感の底にあるのは、そういう負い目なわけですよ。多分。 そういう、ある意味では被害妄想的な負い目であるわけですよ。 だから。 最終的に、何も出来なくなる。 こういう事に関して、僕ぁ結局何をどうすれば良いかってのが、分からない。分からないから、何も出来ない。 だいたいのところが見当ついたところで。 それはそれ、でしかない。 とはいえ。 『ぼのぼの』 のアライグマちゃん夫婦に言わせますと。 「罪悪感が大きいかろうと小さかろうとどっちでも良い」 わけです。 心の中の罪悪感なんてのは、大きかろうが小さかろうが、たいした事じゃない。 そんなもんに囚われていることなんかねぇぞ、と。 人と人とが集まれば、お互いがお互いの大小様々な罪悪感を持ち合っていくのがふつうじゃねぇかと。 (ここはアライグマ夫婦の話なので、「罪悪感を持ち合うのが夫婦じゃない」 ってのが本来のセリフなんだけど) どっちが大きい、どっちが小さいなんて比べ合ったってしょうがねぇんだよ、と。 まぁ、ワカル。 わかるんだけど。 …まぁ結局、いつもの通り僕ァそういうのを一人で抱え込んで行くことになるんだろうなぁー。 みたいな事を思いつつ。 ですよ。 んで。 何がムカツクって、楽天のこのエディタ、ときどき突然書き込み途中の全てのデータが消えるバグがあるってところですよ。 そろそろ、寝る。多分寝れる。