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カテゴリ:医療と健康
以前は頻繁に、コメントで異論を言ってきた人たちがたくさんいたのだけれども、ここ半年ほどない。前は月に二度や三度はあったのがめっきり減った。
■■内田式 DU腰用サポーター ベージュ(テーピングの巻き方・仕方・方法が一発のサポーター腰痛... この理由について、肯定的にとらえるのならば、これは自然主義経済に対しての理解が浸透しているのだとも言えなくもないが、否定的にとらえるのならば、ここ最近私は自分が武術をやってきていることをバラしてしまったので、ビビって誰も文句つけなくなったのだろうかとか、いろんなことを考えてしまいます。 ここ数日、政治関係を述べるブログを回ってみたのだけれども、あいもかわらずガッカリさせられる。右か左か真ん中か、そんな中でも微妙に右とか、もうちょい左とか、官権か民権か、軍拡か軍縮か、反中か親中か、産経か朝日か、護憲か改憲か、旧来からあるような議論をいまだに続けてる人ばかりである。同じ数直線上で争っているのだ。軍事も環境も、経済も財政も、福祉も年金もすべてだ。 政治が迷走しているのは、ジャーナリズムの精神を持つ人々が、迷路の出口から抜け出せないからだろう。同じところをぐるぐる回っている。まことに愚かとしかいいようがない。 彼らに共通してる特徴は「止心」に終始していることだ。止心があるから特定のイデオロギーに固執してる。 首斬り朝 (10) 止心の章 止心とは、一つのところにしか目が向かず、全体が見えないために必ず敗北することで、武道では戒められている。心が止まってしまう状態だ。環境なら環境のことしか考えない。軍事なら軍事のことしか考えない。彼らにとって軍事と環境は全く関係ないものだと思ってる。貿易と年金も関係ないし、通信行政と福祉も関係ない。すべての政策分野が全くつながっていないのだ。これでは政治とは言わず、たんなる政策のよせ集めだ。 したがって、一つのことが全体につながるようなものの見方が求められる。これを「放心」と言う。 部分を鍛練しようとする現代スポーツも、部分で治療をしようとする現代医療など、西洋文明を取り入れてからわが国は、この止心によってとらわれるようになった。 全体を鍛練しようとするのは武道であり、全体を治療しようとするのが東洋医学である。自然主義経済はこの考えに則っている。 剣道では「相手の目を見よ」と言う。自分や相手の竹刀、あるいは狙った面、小手などに注目してしまうと、結果的にそこへ打突することができない。これは相手に悟られるからであり、また全体を見渡していないから己の見過ごしから自分がやられるのだ。 ■伊藤さおり Gカップの剣道部主将080424UP10 合気道では、「相手の目を見るな」と言う。目によって気を吸引されてしまうからであり、相手を意識していることになる。相手を相手にしないこと、つまり敵とみなさないことによって、相手が自然に倒れてしまう。 ■【DVD】合気道クラシックス vol.1 どちらにしても、全体を見る能力を高めよと言っていることに違いはない。 バイクに乗る場合、コーナリングにおいて、コーナーの外側を見てしまうと外側に膨れてしまう。だからイン側にクリッピングポイントを置く。しかし、このさい、路面状況も把握し、コーナーの外側も把握し、後ろからくるライダーについても把握する。前を走る車があればそのドライバー、ライダーが次にどのような行動をとるかを予測する。したがって、クリッピングポイントだけを見ていては状況を失することになる。そしてコース全体のどこに位置しているかを、空から見下ろしている感覚がなければ次にどのようなRのコーナーが迫ってくるか把握できないだろう。 ところが、政治家もジャーナリストたちの政見も、ほとんどすべてが止心にとらわれている。テレビで政治家の討論番組がよくおこなわれてる。最近はバラエティ番組などでもなされるようになったが、テーマはすべて政策別になっているだろう。政治というものは、各個別の政策を論じることではなくて、総合論の仕事なのに、彼らのやっていることは、政治家のやることではなくて官僚のなすことだ。全体の指針がないから迷走している。 放心というのは、心をすべてに放つことである。一般に「放心状態」というのは、心の停止状態をいうのだけれども、武道で放心とは、心の開放による全体把握のことを指す。 放射線状に360度を見ることは、肉体の目だけでは不可能であるから、自分の全身と全霊を使って把握することだ。 肉体の目だけでとらえようとするから止心になる。初心者のうちはどのようなことをするにあたっても仕方ないかもしれないが、慣れて放心ができなければ、その人はもう政治などやめたほうがよい。 部分を積み上げて全体を見ようという考えは、知識に依存しているからだ。「私はその専門じゃないからわかりません」とか、「政治のことはよくわからないけど」とか言う言葉はどうにもおかしい。政治に無縁な人間などこの世に一人としていない。 たとえば私はプロ野球について詳しくない。小学三年まで王貞治を応援していたきりで、あとのことはよく知らないが、選挙運動や会社の営業などのさいにプロ野球の話題を知らないと困ることがよくある。しかし、勝負事は知ってるからどうにでもなる。 だから、いちいち細部の知識がないからといって躊躇して、何もしないのは怪我のもとである。 刃物を持った暴漢が襲ってきて、「ああこのナイフはどこ製で、角度は何度あるから、どれくらいの殺傷能力があって、これで刺されたらどの病院に行って・・・」などと考えはしないだろう。「私は刃物の知識がないからわかりません」とはなっても、とりあえずよけるなり、刃物を取り上げるなりするだろう。これは知よりも、体が優先しているからだ。 釈迦が戒めたのは、こうした能書きよりも、まず心身をもって対処することがあるだろうということだった。 知ることはあとである。頭で考えていると間に合わない。頭で考えた技は決まらないが、体が勝手に動いた技は決まる。これは心身が統一しているからだ。頭脳を経由しているとろくなことはない。偉大な頭脳をもつ学者たちも、頭脳そのものによらず、身心の統一によって物事が発明されているのではないか。 武術や危機管理の場合は、ゆとりの時間が与えられないため、頭で考えている暇がないときがある。このときに止心状態だと対処はお粗末になる。だから、今の政治家のほとんどは止心ばかりだから、危機管理は任せられないということになる。とくに安倍前首相などは止心ばかりだ。彼はハリボテ武士である。 小泉元首相なら危機管理について的確な判断をするだろうが、彼は守銭奴隷属の武士でもあるから、別の問題を多く抱えている。 法律がどのようになっていても、超法規的措置というのは人命のためには必要不可欠だ。そんなとき、能書きを国会やら安全保障会議室でグズグズやってる場合じゃない。 彼らはそもそもは「命のために法がある」と考えていたのだが、グズグズが好きな連中なのでいつのまにか法律論争に明け暮れるのである。そして法が優先してしまう。 ここまで書いてみて思ったのは、「ああ、自分もけっこう愚図愚図書いてるなぁ」と。だからここで終わり。 ■メリハリBODYラブリーウェアー お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年04月24日 19時23分42秒
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