2006/04/16(日)10:42
フィリピンを訪ねて その2「それでもフィリピン人は日本が好き ~許された国~」(前)
「もし日本が世界大戦で勝ってたら、フィリピンはもっと発展してたのに」
3月半ば、場所はルソン島の真中ら辺、世界遺産の棚田が有名な地域であるボントック(Bontoc)を訪れた。
ボントックはバスの中継地点としてだけでなく、この辺りではやや大きめの町として栄えている。
そのボントックから更に、ジプニーで1時間半の場所にあるマイニット(Minit)に、僕は足を運んだ。
(ジプニーとは、米軍のジープを改造して作ったバスのようなもの)
マイニットには、たった1つしか宿がない。
しかも、いつ開いてるかは神のみぞ知る(だから要予約!)。
そこの宿のオーナーであるフィリピン人の老夫婦と話をしていた。
その時に出てきた言葉が冒頭のものである。
「もし日本が世界大戦で勝ってたら、フィリピンはもっと発展してたのに」
「そうだね、あっはっは~」
・・・・なんて言えやしません、とてもじゃないですが。
いやはや、なんともセンシティヴなお言葉である。
さて。皆さんはフィリピンの歴史をご存知だろうか。
かく言う僕だって、よくは解っては居ないのだが、
後から関係のある部分を、ちょっとだけ説明しよう。
16世紀からスペインの植民地だったフィリピン。
19世紀末には、米西戦争によってアメリカが領有することになった。
そして、第二次世界大戦中の1941年の暮れに日本軍がフィリピンに上陸し、その占領は1945年まで続く。
(補足だが、1945年後はアメリカが、フィリピンを政治的・経済的に牛耳っている。
それが現在でも続いていることは、米軍基地とビーチ近くのバカでかい米国大使館などが象徴している)
大戦中に日本軍がしたことは、我々が知っている事とさほど変わらない。
従軍慰安婦として働かされた。
日の当たる浜で、日中立たされたままにされるなどの拷問を受けた。
食料と言う食料が奪われた。
食料を出すことを拒んだり、食べ物を隠し持っていたことがばれると、村中の人が殺された。
悲惨な戦争体験である。
実際に出会った人たちから、以上のようなことを、僕は聞いたのであった。
つまり、フィリピン人は、「身近な経験」として、世界大戦中の日本軍がやったことを知っているのである。
(写真は「バターン死の行進」のモニュメント。
日本軍が大戦中に、捕虜を100km超の距離を炎天下の中で歩かせた。)
だが、それにも関わらず、冒頭の発言なのである。
特に中韓の紛糾のために「日本はアジアの嫌われ者」なんて考えていた我々には信じがたいものだ。
(あらかじめ言っておくが、だからといって「太平洋戦争は間違ってなかった」とかそういうことを言いたいわけではない。この辺りは後編に)
「もし日本が世界大戦で勝ってたら、フィリピンはもっと発展してたのに」
と言った、ホテルのおばあちゃん。
実は、彼女は日本軍占領下で小学校教育を受けており、
日本の言葉も、挨拶だけは覚えていた。
「この地域は戦闘が激しくなかった」とは言ってはいたが、
それでも占領軍である日本が勝ってたら、と言うなんて、容易には信じがたい。
そして、もうひとつ。
これもマイニットでのことであるが、
たまたま小学校に迷い込んだ僕は、そこで5年生担当のパスパス先生と仲良くなった。
彼からも、こんな話を聞いた。
小学校の勉強の一環で、「占領が何をもたらしたか」という比較を生徒同士で議論したらしい。
前述したように、フィリピンはスペイン、アメリカ、そして日本に占領されてきた。
それぞれの占領によって、フィリピン人の生活がどう変わったのかを話し合うらしい。
そこで小学生たちが出した日本の占領の特徴は、「発展」だったというのだ。
現在の台湾・韓国の発展は、日本が占領したことによるものだ、という推察から。
教育者の彼もまた、「日本の占領がもっと長ければ良かった」と僕に言った。
彼も祖父母から、「日本軍が通った時に、頭を下げて挨拶しなければ暴力を振るわれる」
といった話を聞いているというのだが。
歴史の捉え方ってのは、本当に難しいものだと感じた。
では、なぜフィリピンでは日本がそんなに良いイメージなのか。
・・・・・・って所は後編に続く。
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余談であるが、
「占領がもたらしたもの」ということで、『現代フィリピンを知るための60章』にはこうある。
スペインは、カソリックをもたらし、悪魔の虜からの解放をした。
アメリカは、民主主義と英語をもたらし、スペインの圧制からの解放をした。
日本は、アメリカの帝国主義からの解放をした。
二度目の占領でアメリカは、日本のファシストからの解放をした。
ご参考までに。
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歴史つながりってことで、もいっこ余談。
台湾にも僕は行った。
そこで「台湾故事館」という元世界一高いビルの地下2階を訪れた。
館長の幼い頃を再現したというその場所は、
「昭和レトロ館」と言っても、誰も疑わないだろう。
そこには、懐かしい日本そのものがあった。
駄菓子屋に、料理屋に、教室に、貼り紙に、ポスターに。
昔の日本と寸分違わない。
「占領の名残り」を感じざるを得なかった。
一緒に行った台湾人の友達は、どんな気持ちだったんだろう、と思ったが、
彼女もまた「懐かしい風景」と呟いていた。
ごめん、という言葉が、心で反響した。
ちなみに。
台湾故事館のパンフレットは、台湾語と日本語のみで、英語が無かった。
フィリピンを訪ねて
(0)「はじめに」、
(1)「笑顔の理由 ~見えない貧困~」
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日中考 1/5 謝罪について ~ODA is just ODA~
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