正当判決(紀州のドン・ファン事件
被告人は無罪。あたりまえ。あまりにも雑な状況証拠の羅列。一例をあげる気にもならないし、でも、取り上げたいので書いてみる。最終弁論での弁護側の発言。薄い灰色はいかに塗り重ねても黒にはなりません。間違いなく有罪なのかを見極めることが刑事裁判の任務です。以前、某事件の参考人として警察に協力したことがあるけれども、(情報提供する人のことを一般に参考人という)その時は「真っ黒」確定の情報(証拠)を提示してみせたな(爆基本的にそういうものがなければならんのだょ。どんなに濃ゆい灰色であっても、「合理的に」「完全に黒」と推定できなければ、有罪とすることはできない。というか・・・してはならないことになっている。判決結果を示した某報道にあっては、こんな記述も。判決言い渡しが終わった後、検察官全員が呆然とした表情を浮かべていた状況証拠の積み重ねもナニも弁護側に「薄い灰色」と揶揄されるモノたち。和歌山地検、やっちまったな。昨今、TV番組で「自殺の可能性はないと考えられており、また、量を誤飲したとも考えにくい」とか言うバカな奴もいるけど。なんか、世間一般の話を何も知らないとしか見えない。例えば、リストカット。あれは自殺するためのものではない。1つ間違えればそういう結果になることは否定しないが、基本的にはそういうものを目指して切るわけではない。薬物も同じ。オーバードーズ。リストカットよりも多くに人がやっていること。知り合いでも相当に飲んで胃洗浄したとかいう人もいるけどね。覚せい剤だからオーバードーズの可能性はないなどとは言えない。意識的に多く飲もうとして致死量相当量を飲んでしまった。そういう可能性の諮詢も必要じゃないだろうか。和歌山と言えば、和歌山カレー事件。あれも状況証拠の積み重ね。個人的にはアレも雑な状況証拠の積み重ねにしか見えなかったし、今もそう思う。近年この事件の取材をしようとしても関係者一同「貝」になっているらしい。まるで何者かの権威と面子を守るかのように。そこででてくるのがこの映画。マミー。http://mommy-movie.jp/今年公開の映画。見ていないんだけれども。機会があれば(たとえどんな形であろうと)見ようかと思っている。別の話としてついでに書いておこう。「宮崎勤」、彼は完全な真っ白だった。責任能力の有無を確認する精神鑑定は行われても、精神年齢の鑑定は一切行っていない。幼稚園児を法廷・証人台に立たせたようなもの。まともな審議になるわけがない。4つの別々の事件を強引に1つの事件として扱ったマスコミ。それに乗っかった警察。あきれてものが言えないかった。彼の執行をしてから間もなくして鳩山法相(当時)は死んだ。因果応報?とかいうやつだろう。再審請求をしようとしている最中の執行。あまり例がないという。これも権威と面子を守るための行為だったのかもしれない。おしまい