「第五福音書」より
『キリストという地上存在は人間の表象能力を超える最も深い苦しみから生まれました。 ・・・・・・・・・・・・・途中略・・・・・・・・・・・・ヨハネによるヨルダン川での洗礼を通して地上に下り、三年の間肉体の中に生き、ゴルゴダの丘で死を体験した霊はヨルダン川でのヨハネによる洗礼以前は地上とは全く異なった世界に生きていたということをはっきりと把握しなければなりません。この霊が地上とは全く異なった状態の中に生きていたというのは何を意味するのでしょうか?人智学的に言えば、この霊は地上的な業(カルマ)をもっていないということを意味しています。キリストという霊が地上で人生を送ってきたナザレのイエスの体の中に三年間、魂の中に地上的なカルマを持つことなく生きたのです。このことによってキリストが地上で持った経験と体験は人間の魂が持つ経験とは全く異なった意味を獲得しました。苦しみ、様々の経験をすると、苦しみの根拠はカルマの中に存することがわかります。けれどもキリストという霊にとってはそうではありませんでした。キリストは三年間、カルマを負うことなく地上での経験を積みました。キリストの苦しみとは一体なんだったのでしょう。カルマ的な意味のない苦しみ、実際、いはれのない苦しみ、無実の苦しみです。 ・・・・・・・・・・・・・途中略・・・・・・・・・・・・キリスト存在は徐々にナザレのイエスの体に似てゆき、自らを圧縮して地上的な状況へと入り込み、それと共に神的な力は消え去ってゆきます。これら全てをキリスト存在はナザレのイエスの体に類似してゆき、ある点で下降的進化を遂げることで成就してゆきます。キリスト存在はナザレのイエスの体に類似してゆくことによっていかに神の力がますます失われてゆくかを感じなければなりませんでした。キリストは神から人へとなってゆくのです。自分の体が消え去ってゆくのを見て非常に苦痛を感じるように、キリスト存在はエーテル実体としてナザレのイエスの肉体に似てゆくことによって神的実質が消えてゆくのを見、遂には人間のように不安を感じることができるまでになりました。他の福音書にも記されていますが、ナザレのイエスの体の中にいるキリスト存在は弟子たちと共にオリーブ山から下るとき、額に不安のあまり汗をかきます。キリストはますます人間になってゆき、ナザレのイエスの体に似てゆきます。エーテル的キリスト存在がナザレの体に似てゆく分だけ、キリストは人間になってゆくのです。そして、神的霊力は消え去ってゆきます。ヨルダン川に於けるヨハネによる洗礼のすぐ後、神的な力によって病人を癒し、魔を追い出した時からキリスト存在の受難の道は始まります。 ・・・・・・・・・・・・・・途中略・・・・・・・・・・・・・キリスト存在はナザレのイエスの病み疲れた体に似てゆき、もはやピラト、ヘロデ、カヤパの問いに答えられなくなる程ナザレの体に似てゆきました。ナザレのイエスの体はますます虚弱に病み疲れてゆきました。 ・・・・・・・・・・・・・・途中略・・・・・・・・・・・・・ヨルダン川での洗礼からこの無力に至るまでの受難の道をキリストは歩んだのです。かつてキリスト存在の超地上的な霊力に驚嘆した多くの人々はもはやキリストを賛美せず、人間になって十字架に懸けられた無力な神を嘲弄して、「おまえが神なら、十字架から下りてみろ。おまえは他の人々を救った。今度は自分を救ってみろ。」と叫びます。神的な力の充満から無力へと至るのが神の受難の道です。人間となった神は人類の苦悩を負って果てしない苦痛の道を歩みました。この苦痛の甘受が聖霊降臨の日に使徒たちに下った霊を生み出したのです。この苦痛から全てを支配する宇宙的な愛が生まれ出ました。このすべてを支配する宇宙的な愛はヨルダン川での洗礼によって地球外の天界から地球界へと下り、人間に、人間の体に類似してゆき、人間には決して考えることができない程の苦痛を体験し、最高の神的無力を通過することによって、人類の発展の中でキリスト衝動として認識される衝動が生み出されたのです。将来理解されるに違いないキリスト衝動の意味全てを深く理解し、人類の未来の文化の発展のために必要とされるものを理解するためにこのことを把握しなければなりません。』 ※キリスト秘教では、イエスがヨルダン川で洗礼を受けた時にキリスト存在がイエスに受肉したと捉えています。