たとえ聖人でも盲信しない
神秘主義というものは、教義や聖典などを通して間接的に神を知るのではなく、瞑想や観想によって直接的に神を知り、神と一体になる道です。私たちがめざしている覚醒の道も同じです。 そうすると、神や宇宙の法則はひとつのはずですから、宗教的な教義(ドグマ)だとか儀式といったことにはこだわらなくなるはずです。実際、一般の宗教者と比べると、神秘家は、細かい教義などにはこだわらなくなり、排他的で独善的になったりせず、普遍的な考え方を抱くようになる傾向があります。 しかし、完全ではありません。覚醒していると思われる聖者でさえ、私から見ると、自分の信奉している宗教的教義のとらわれから抜けきれていない傾向が感じられるのです。 もちろん、それがとくに問題がなければいいのですが、一番の問題は、やはり独善性です。つまり、自分の宗教だけが唯一正しく、他は邪教だとする考え方です。この考え方をしますと、いつまでたっても地上に平和は訪れません。果たして、これが神の望むことなのでしょうか? キリストは愛の宗教だと言われます。確かに、その教えを見ますと、うっとりするような愛が説かれています。「汝の敵を愛せ!」という、寛大で美しい愛が説かれていることに感銘を受けます。 しかし、こうした愛は、ひとつの条件があることを忘れてはいけません。それは、「ただし、異端は除く」 という条件です。異端、すなわちキリスト教以外の宗教(異端という言葉には、それ以上に"邪教"といったニュアンスが含まれています)を信仰している者は、愛する対象から除外されるのです。 すなわち、「汝の敵を愛せ。ただし、異端は殺してもよい」というのが、キリスト教なのです。少なくても、今までの歴史のなかで、キリスト教徒が行動で示してきたことです。 イスラム教の一派がテロなどを頻繁に起こし、世界中から非難されていますが、これまでの歴史でキリスト教徒が殺してきた人々の数、またその残虐性は、イスラム教テロリストの比ではありません。異端という名目で、どれほどの人々が殺され、火あぶりにされ、石で頭を割られたり、迫害されてきたか知れないのです。 表向きは愛の宗教を主張しながら、ひっくりかえすと血塗られた虐殺の宗教であるというのが、キリスト教の歴史です。キリスト教国アメリカが、なぜあれほど非人道的で残酷な原爆を投下できたのでしょうか? 「汝の敵を愛せ」ではなかったのでしょうか? 結局、日本は「異端」の国だったからだというのが、理由のひとつにあるような気がします。 キリスト教は、他のどの宗教よりも「謙虚さ」を重んじていますが、他宗教を「異端」呼ばわりする、つまり、邪教と決めつけること自体、高慢の現れではないでしょうか? 本当に謙虚であれば、どの宗教にもそれなりのすばらしさがあるから、認め合おうとするのではないでしょうか? なぜ、「異端」をここまで非人道的に排除するかというと、その理由はおそらく、イエスが神の一人子であり、イエスに従う者だけが救われるという、私からすると間違った教義が生まれてしまったからだと思われます。イエス自身は、そのようなことは言っていません。この教義は後で作られたものなのです。イエスが言いたかったことは、「すべての人が神の子供であり、ひとりひとりのなかに存在するキリスト(真我)を覚醒させることによって救われるのだ」ということだと私は思っています。 それはともかく、イエスを信じる者だけが救われるという教義を作ってしまったものだから、他の宗教の存在を認めるわけにはいかなくなります。もし認めたら、自分たちの教義を否定することになるからです。そうして、この教義が教会という権力組織によって利用され、他宗教を迫害するという結果になってしまったわけです。 私は、このようなことは決して神が望むことだとは思いません。神秘家は、神とダイレクトに交流する者ですから、そのことが自然とわかるはずなのです。 ところが残念なことに、奇跡を起こすこともでき、おそらく覚醒しているか、それに近いほど高い心境にあると思われる有名な神秘家のなかにさえ「異端は無理矢理にでも改宗させよ、さもなければ殺せ」といったことを主張する人がいることです。そこまででなくても、「イエスを信じる者だけが救われて他は邪教だ」という考えを捨てない人はかなりいるようです。 世界を広く見渡せば、キリスト教以外にも、つまりイエスを信じていなくても、覚醒して高い境地に達した人はたくさんいるのに、そういう人たちの存在をどう思っているというのでしょうか? なぜ、人の心を読んだり、未来を予言したり、さらには空中浮揚をしたり、パンを増やすことができる奇跡まで行える聖人が、こんなことを言うのでしょうか? それはやはり、自分の出所となった教えに、どうしてもとらわれてしまう部分が、たとえ覚醒したとしても、残ってしまうからではないかという気がします。つまり、覚醒したとしても、「完全」になるわけではなさそうなのです。 ですから、私が皆さんに提案したいのは、いかにすばらしいとされている聖人であっても、その威光や権威に惑わされず、「この聖者の言うことは何もかも正しい」などと思わず、自分に正直になり、「私はこの意見には賛成できない」という勇気を持っていただきたいということです。もちろん、自分の方が間違っているかもしれません。もし間違っていることがわかったら、そのとき反省して改めればいいのです。一番いけないのは、「心の底では受け入れがたいのだが、たくさんの人が聖者として崇めている方だから、それに対して反対するのは気がひける」といって、自分に嘘をつきごまかすことだと思います。そんなことをしていたら、どのみち表面的な信仰しかできないような気がします。それは単なる盲信です。 私は、キリスト教は信奉していませんが、イエスは心から信奉し敬愛しています。キリスト教徒ではありませんが、「イエス教徒」といってもいいかもしれません。それくらいイエスを深く敬愛していますが、もしイエスが目の前に現れて「あいつはキリスト教徒ではないから、殺しなさい」などと言ったら、私は即座にイエスを捨てるでしょう。「イエス様の言うことは常に絶対に正しい」などと思い、人を殺したら、それこそどこかのカルト教団みたいになってしまいます。 余談ですが、むかし『スタートレック5』というSF映画がありました。銀河の果てにある星に、人類の「神」が存在していることをつきとめたと主張する宇宙人を乗せ、宇宙船でその星に行き、「神」に会いにいくのです。すると、まさに「神」が現れ、乗組員はひれ伏して崇めるのですが、その「神」が「君たちが乗ってきた宇宙船を使って、私の教えを広めることができるかね?」と語りかけてきます。すると、その質問に疑問を抱いた船長が「すみません。なぜ神様に船が必要なんですか?」とたずねます。他の乗組員は「神様に質問するとは何事ですか!」とたしなめますが、船長は繰り返し質問します。すると「神」は、「私を疑っているのか!」と怒り、光線を発して船長を攻撃します。それを見た乗組員たちは、「これはおかしいぞ」ということになり、宇宙船に乗って「神」と戦います。結局その「神」は、宇宙人の傲慢な想念が形となった幻影だったことが後でわかります。 このように、大胆にも「神」に疑問をぶつけた英雄、ジェームズ・T・カーク船長を見習おうではありませんか。もし彼が質問をしなければ、ニセの神様によって地球は侵略されていたかもしれなかったのですから! いかに有名な聖者であろうと、そこに「権威主義」を持ち込んではいけません。疑問があればぶつけることです。たとえ、「疑問を起こすのはおまえのエゴだ。覚者のいうことに素直に従うのが霊的にすぐれた者だ」などと言われてもです。 斉藤啓一氏ブログより