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●スケベ力
毎日、こりもせず、スケベ・メールが届く。「未承諾」と書いてあるのは、まだよいほう。書いてないのも、多い。 (「未承諾」と書いてあるメールは、即、フィルターにかけ、削除。) さらに最近では、実に思わせぶりのものが多い。「先日は、いろいろありがとうございました。SS子です」とか、件名に書いてあると、思わず、開きそうになってしまう。 私も、もともとスケベな人間だから、興味がないわけではない。しかし、こうまで雨、嵐のように送り届けられると、もう、うんざり! 「いいかげんにしてくれ!」と思わず、叫びそうになる。 しかし人生も半世紀をすぎると、スケベのもつ意味というか、はかなさというか、それがよくわかるようになる。男も、女も、同じ。それがよくわかるようになる。が、だからといって、スケベ力を否定しているのではない。 このスケベ力が、人間が生きる原動力になっている。フロイトも、そう言っている。 たとえば、ビデオにしても、そのあとのインターネットや携帯電話にしても、このスケベ力があったからこそ、飛躍的に進歩したという。スケベサイトあっての、ホームページというわけである。もしスケベサイトを禁止してしまったら、ホームページは、こうまで進化しなかったと言われている。 要するに、男も、女も、スケベが好きということ。これは事実。あとは、それを隠すか、堂々と披露するかの、どちらか。 ところで、ワイフが、こんな情報を、どこからか仕入れてきた。かなり、鼻血もの! あるところに、夫婦関係を調整するアドバイザーがいるそうだ。男性。年齢は、50歳くらい。まさに男のスケベ盛り。 セックレスになった若い妻を指導するのだ、そうだ。 方法は、簡単。その女性に、セックスの指導をするという。たがいに、素っ裸、で。そしてセックスの喜びを、もう一度、基礎から(?)教えなおすという。 「それ、売春じゃ、ないの?」と聞くと、「女性のほうが、お金を払うから、売春では、ない」とのこと。「浮気だよ」と言うと、「指導だから、浮気ではない」とのこと。ナルホド! で、結構、繁盛しているらしい。その男性は、こう言っているという。「セックスに特別な罪悪感をもたせてはいけない。楽しむべきものとして、楽しむのが、よい」と。これまた、ナルホド! 私「ダンナは、自分の妻が、そういうところに通っているのを知っているの?」 ワ「知らないと思うわ。そういう話はしないもの」 私「年齢制限はあるの?」 ワ「一応、若い妻だけだそうよ」と。 何を考えている、このスケベ男! 私には、その下心が、ヨ~ク、わかる。それにしても、こんな地方都市にまで、そういうことをする男や妻が出てきたこと自体、驚きとしか、言いようがない。 が、所詮、セックスは、無。みなさん、おおいに、がんばってください! ●負けを認めて生きる 負けを認めて生きる、すばらしさ、やさしさ、すがすがしさ。 意地もあるだろ。プライドもあるだろう。世間体もあるだろう。 しかし負けを認めて生きる、生きザマにまさる生きサマはない。 気負うことはない。がんばることはない。つっぱることもない。 頭をさげて、腰をまげて、にっこりと笑って、すみません、と。 それでよい。あなたの心に、さわやかな風が、かけぬける。 ++++++++++++++++ 年をとることのすばらしさの一つは、負けを知ること。誤解がないように言っておきたいが、負けることは、恥でも何でもない。敗北感を味わう必要はない。負けることの美しさは、それを知ったものでないとわからない。 まず、体力で負ける。つぎに知力で負ける。それを繰りかえしていると、身も心も、ボロボロになる。ボロボロになったところで、もとのキズがわからなくなる。 バカにされる。無視される。じゃまにされる。若いころは、それらにいちいち反応する。怒ったり、泣いたり、つづいて、ときには、復讐を誓ったり、報復したりする。しかしそうなったとたん、心は動揺し、心の平安は消える。 たとえば、少し前、こんな事件があった。 80歳を過ぎた男性が、わずか数坪の土地のことで、隣人と、裁判をしていた。ふつうの男性ではない。先祖は、そのあたりでも、昔からの大地主。千坪単位の土地を、あちこちにもっていた。 そんな男性が、たかが数坪の土地のことで、「オレの土地だ」「お前の土地ではない」と。 長年の確執があったのだろう。それはわかるが、しかしその男性は、残り少ない人生を、どう考えているのだろうか。「私なら……」という言い方はしてはいけないのかもしれないが、私なら、そんな裁判をしているヒマはない。そんな裁判を繰りかえして、心をわずらわせたくない。 あるいは、年をとればとるほど、財産に執着するようになるものなのか。近所の人の話では、その男性は、道をはさんで、大声で怒鳴りあっていたという。 今は、まだ80歳の人の心境が、私には、よくわからない。そのうち自分が80歳になったら、そのときの心境を、また書いてみたい。その年齢には、その年齢の未知の心境があるのかもしれない。 が、もし、その老人が、負けを認めたら、どうなるだろうか。数坪の土地は失うかもしれないが、しかしそれと引きかえに、心のやすらぎを覚えるにちがいない。負けたことで失うものより、やすらぐことで得るもののほうが、はるかに多い。 そこで昔の人は、こう言った。『負けるが、勝ち』と。負けることで、結局は、勝つことになる、と。 負けることで、心におおらかさが生まれる。 負けを認めることで、心に余裕ができる。 負けたとたん、相手に、笑顔が生まれる。 しかし、それだけではない。 負けることによって、それまで見えなかったものが、見えてくる。何が大切で、何が大切でないか、それがわかるようになる。 さらに、負けることで、失うものは何もない。むしろ、事実は逆で、負ければ負けるほど、人は、さらに大きなものを手に入れる。人間関係にしても、利益にしても。 だからあなたも、勇気をもって、負けてみよう。あなたも、すぐ、負けることのすばらしさを体感するはず。 ●生涯学習 市町村の教育委員会へ行くと、「生涯学習」という言葉が、目につく。生涯学習課というのもある。 しかし生涯学習とは、何か? もともと欧米では、大学や大学院というのは、その道のプロを育てるという意識が強い。だから、社会人になったあとも、ときどき大学や大学院にもどって、そのつど必要な知識を補充するという制度が、確立している。 たとえば、オーストラリアの友人のM氏は、地方のD町の診療所で医師をしている。そのM氏にしても、定期的に、母校や近くの大学へ行っては、研修を受けたり、反対に、講師をしたりしている。 それを欧米では、リカレント教育※という。 生涯教育というと、いわゆる教養教育を想像する人も多いかもしれないが、リカレント教育というのは、もっと、専門的。リカレント教育イコール、専門教育と考えてよい。医師が、大学へもどって、詩や俳句の勉強をするようなことを、リカレント教育とは言わない。 で、日本も欧米に遅れること、50年? それとも100年? やっとそのリカレント教育が始まった。始まったというより、規制が緩和された。大学や大学院で、社会人を対象とした公開講座がもたれるようになった。 それが生涯学習である。 が、この日本では、この意識が、なかなか定着しない? 子どもをもつ親にしても、子どもに向かって、「勉強しなさい!」と言う人は多いが、自分で勉強している人は少ない。たいていの親は、こう言う。 「私は、終わりましたから」と。 つまりもう終わったから、勉強しなくてもいい、と。 もともと勉強というのは、学歴を身につけるためという意識、つまり学歴意識が強い人ほど、そういう考え方をする。中身より、学歴というわけである。 そのため、日本人のばあい、とくに家庭に入った女性のばあい、結婚時をピークに、それ以後、知的レベルは、低下の一途をたどる。(……とみてよい。失礼!)知識にせよ、教養にせよ、自ら積極的に補充してこそ、現在のレベルを維持できる。もしその努力を怠ったら、あとは、低下するのみ。 それは健康論に似ている。 毎日、運動をしたり、スポーツをしたりするから、健康は、維持できる。もしだらしない生活をしたら、その時点から、体は、ナマル。(「ナマル」というのは、健康力が低下するという意味。) だから生涯学習が必要なのである。いつも前向きに学習していく。 だから、世の母親たちよ、もっと、勉強しようよ。 もっと、はやし浩司のマガジンを読もうよ。(←これはコマーシャル。) 人間は、生涯、学習すべき、生き物なのだア! (はやし浩司 生涯学習 リカレント学習 健康論 健康力) (注※)「リカレント教育」……「リカレント」というのは、「還流する」という意味。1973年に、OECD(経済協力開発機構)が、キャリアアップのために提唱した、教育法をいう。「血液が体内を環流するように、教育が、その人の生涯を還流するという発想にもとづく」(心理学用語辞典)とある。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2004.11.28 08:08:25
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