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別ヴァージョンの人間史 by はやし浩司

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2004.12.02
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カテゴリ:カテゴリ未分類

●被害妄想

 ありもしない恐怖や脅威を、ことさら心の中で肥大化させ、被害者意識をもつ。それを被害妄想という。

 その被害妄想にも、いろいろある。

 よく知られた例に、追跡妄想や被毒妄想がある。追跡妄想というのは、いつもだれかに追跡されているのではないかという、妄想観念をいう。被毒妄想というのは、だれかに毒をもられているのではないかという、妄想観念をいう。

 しかし、こういう被害妄想もある。

 X氏(65歳)は、ある日、隣のY氏(50歳)と、けんかした。「お前は、いつもオレのうちをのぞいている!」「のぞいていない!」と。

 X氏は、それをさかのぼること、数年前から、隣のY氏が気になり始めた。最初のきっかけは、ささいなことだったというが、それについては、私は知らない。

 そこでX氏は、自分の家のまわりに木を植えた。しかし冬になると、葉が落ちる。そこでブロックの塀の内側に、さらに、木の塀をとりつけた。

 が、それでは足りない(?)。今度は、X氏は、Y氏の家に面している窓ガラスを、すべてすりガラス(型ガラス)にかえた。部屋のすべてに、厚手のカーテンをつけ、さらに、家の中で電気をつけるときは、雨戸をすべて閉めるようになった。

 被害妄想である。

 Y氏は、私が知るところ、隣の家をのぞくような人ではない。だいたいにおいて、X氏の家など、のぞいてもしかたない。X氏は、妻と2人暮らし。

 ……と、このように、「家の中をのぞかれている」「いつも監視されている」というような、妄想観念をもつことを、注察妄想という。この注察妄想をもつ人は、多い。

 Aさん(45歳、女性)も、そうだ。「道をはさんだ、向かいのBさん(女性)が、私の家をいつも監視している」と、悩んでいる。

 が、それだけではない。ある日、私にこう言った。

 「私が、新しいバックででかけるとき、Bさんが、『いつも、新しいバックを買って、バカみたい』と言って笑っています」と。

 しかしこの話は、おかしい。Aさんは、どうしてBさんが、そう言っているのを知ったのか? そこで私が、「本当にBさんが、そんなこと言っているのですか?」と聞くと、「私には、Aさんの言っている声が、聞こえます。目つきや、顔の表情を見れば、それがわかります」と。

 こうした被害妄想は、つぎつぎと、新しい妄想観念を生む。そしてあとは、底なしの妄想地獄。

「では、どうしたらいいか?」ということになるが、脳の機能の問題とからんでいるだけに、ことは簡単ではない。先のX氏にしても、Aさんにしても、どこか、うつ病的。X氏は、異常に几帳面(きとうめん)なところがあるし、Aさんは、反対に、生活習慣が、きわめて怠惰(たいだ)。だらしない。日常の生活そのものが、ふつうではない。

 言いかえると、被害妄想をもちやすい人は、あらゆる面で、そうした妄想観念をもちやすいということ。大切なのは、まず、自分がそうであることを知ること。日ごろから、思い過ごしや、取り越し苦労をしやすい人は、それだけ被害妄想をもちやすいということになる。

 もちろんうつ病タイプの人は。要注意! あれこれと悶々と悩み始めたら、できるだけ早く、気分転換をしたほうがよい。そしてそのことを忘れる……。

 (しかし実際には、忘れようとすればするほど、かえって、深みにはまってしまう。私のばあいは、周囲の状況や、自分の心の中を、徹底的に分析することで、こうした妄想観念と戦うようにしている。わかりやすく言えば、相手を乗り越えるということ。相手が、自分よりバカに見えたとき、はじめて、その妄想観念から抜け出ることができる。)

 どんな人でも、ふとしたことから、妄想観念をもちやすい。そしてそれが被害妄想になり、ここでいう注察妄想になったりする。くれぐれも、ご注意!

 ちなみに、広辞苑には、こうある。

 被害妄想……自分が他から迫害されていると信ずる妄想。多くは精神分裂病に見られる、と。ゾーッ!
(はやし浩司 妄想 被害妄想 被毒妄想 追跡妄想 注察妄想 妄想観念)


●善人ぶる

 私はいつから、こうまで善人ぶるようになったのか。とくにそれを強く感ずるのは、講演に招かれたときだ。講師として、演壇の横にすわり、紹介されるのを待つ。主催者のあいさつのあと、講師紹介が始まり、そしてそれが終わると、演壇に登る。そのとき、私は、ふと、「どうして私がここにいるのか」と思う。

 善人ぶることなら、だれにだってできる。簡単なことだ。それほど大きな努力はいらない。さも知っているという顔をして、柔和な笑みを浮かべ、静かにしていればよい。何かを聞かれても、きれいごとだけを並べていればよい。

しかし本当にむずかしいのは、自分の中の悪と戦うことだ。堕落(だらく)から、身を守ることだ。あのトルストイも、『読書の輪』の中で、こう書いている。「善をなすには、努力が必要。しかし悪を抑制するには、さらにいっそうの努力が必要」と。

前にも書いたが、よいことをするから、善人というわけではない。悪いことをしないから、善人というわけでもない。人は、悪と戦って、はじめて善人になる。

 たとえば道路に、大金の入っているサイフが落ちていたとする。一〇〇万円とか二〇〇万円でよい。まわりにはだれもいない。あなたがそれをもって帰っても、見つかることは、まず、ない。しかもあなたは今、お金に窮している。その日に食べる食事代もない。そういうとき、あなたは自分の中の邪悪さと戦うことができるか。それが、ここでいう「悪と戦う」ということである。

 こうした悪と戦う場面は、実は、日常生活の中では、頻繁(ひんぱん)に起こる。そういう意味では、人間はまさに社会的な動物である。人と会っただけで、いつもそういう立場に立たされる。

そこで大切なことは、まずささいな悪と戦ってみる。ウソをつかない。ゴミを捨てない。ルールを守る。インチキをしない。そういうささいな戦いを通して、戦い方を身につける。自分を鍛える。私のばあい、いちいち考えて行動するのがめんどうだから、自分で教条的に、それを決めて従うようにしている。

たとえばウソにしても、一度ウソをつくと、あとがたいへん。つじつまを合わせるために、つぎつぎとウソをつかねばならない。気をめぐらさなければならない。考える力があったら、もっとほかのことに使いたいという思いもある。だからウソはつかない。が、それでももし、大金の入ったサイフが落ちていたら……。

 そんな「私」を知るひとつの手がかりとして、こんな事件があった。

 私が大学三年生のときのこと。夜、バス停でバスを待っていると、足もとに1000円札が落ちているのに気がついた。私はとっさに、なぜそうしたかはわからないが、それを足で踏みつけて隠した。

うしろはたまたま交番だった。私はそのままの姿勢で、じっと立った。今でもそのときの気持ちをよく覚えているが、私はそれを、何かのワナではないかと思った。手でつかんだとたん、うしろから警官がやってきて、「逮捕する」とか何とか。私はつぎつぎとやってくるバスを見送りながら、時間にして、30~40分はそのまま立っていた。

 1000円といっても、今でいう、5000円ほどの価値がある。その上、当時の私は貧乏学生。一度でよいから、あのトンチャン(焼肉)を、腹いっぱい食べてみたいと思っていた。

が、どうしても手をのばしてそれを拾うことができなかった。私は法科の学生だった。そういう自負心もあった。だからそのまま立っていた。が、多分、不自然な位置だったと思う。あとから並んだ人が、けげんそうな顔つきで私をながめながら、横を通り過ぎ、バスに乗り込んでいったのを覚えている。

 私は善人か。それとも善人ではないか。そこでこういう話を、中学生にぶつけてみた。「君たち、交番の前で、5000円を拾ったら、どうする?」と。6人の中学生がいた。すると、全員が、「交番に届ける!」と。そこですかさず、「君たちは、本気か? きれいごとを言っているだけではないのか?」と聞くと、また「交番へ届ける!」と。ひとり、「どうせそういうお金は、自分のものになるよ」と。

 そこでまた私は考えてしまった。中学生でもわかる論理が、当時の私にはわからなかったのか、と。いや、頭の中でシミュレーションするのと、実際、そういう立場に立たされるのとでは、受けとめ方はまるでちがう。中学生の言葉をそのまま信ずることもできない。

そこで話を変えて、「1000円だったら、どうする?」「500円だったら、どうする?」と聞いてみた。すると、「1000円なら、もらってしまうかな」「100円だったら、ぼくのものする」と。どうやら、こうした善悪は、金額によって決まるようだ。……ということは、彼らがもっている論理は、倫理ではない。

 それが倫理であるかどうかは、つまりその人の行動規範であるかどうかは、人が見ているとか、見ていないとかいうこととは関係ない。このケースで言えば、金額の大小ではない。あくまでも自分の問題なのだ。

たとえばゴミにしても、「大きなゴミは、道路に捨てないが、小さなゴミなら捨てる」というのは、倫理ではない。たとえガムの食べかすでも、道路へ捨てない。そういうふうに、自分を律する力が、倫理なのだ。

 私はしかし、中学生たちが、「1000円なら、拾ってもらってしまうかな」と言ったとき、正直言って、ほっとした。理由は簡単だ。

 私はそのあと、うしろの交番に目をやりながら、その1000円札を拾って、すかさず自分のポケットにつっこんだ。そしてあとは一目散に、その場を走って逃げた。うれしかった。本当にうれしかった。そして私は今でも、はっきりと思えているが、その1000円で、喫茶店でお茶を飲んだあと、あのトンチャン屋へ足を運んだ。ライスが100円。トンチャンが一皿、150円。それを腹いっぱい食べた。

 そんな私が、今、善人ぶって、みなの前に立つ……? いつか私を講演会で見る人がいたら、ぜひ、このエッセーを思い出してみてほしい。そしてこう思ってほしい。「あの、林め、偉そうな顔して、善人ぶっているが、どうしてあんな男が、ここにいるのか?」と。

そう思ってもらったほうが、私にとっては、ずっと気が楽になる。






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Last updated  2004.12.02 09:39:55



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