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●テレビを消そう!
「テレビを見せておけば、静かにしていてくれる」と。 それはわかるが、しかし、乳幼児に見せるテレビやビデオは、ほどほどに! 今年(04年)、日本小児科学会、「こどもの生活環境改善委員会」は、テレビ視聴が、乳幼児に与える影響について、調査した。 その結果、「長時間の視聴は、1歳半における意味のある言葉の出現の遅れと関係がある。とくに、日常やテレビ視聴時に、親子の会話が少ない家庭で遅れる」という調査結果を発表した。 そこで同委員会は、つぎのような提言をまとめた。 (1) 2歳以下の子どもに、テレビ、ビデオを長時間、見せない。 (2) つけっぱなしにせず、見たら、消す。 (3) 乳幼児には、ひとりで見せない。見るときは、親もいっしょに歌ったり、子どもの問いかけに応える。 (4) 授乳中や食事中は、つけない。 (5) 乳幼児に、適切な使い方を、身につけさせる。 (6) 子ども部屋に、テレビ、ビデオを置かない。 大脳生理学の分野でも、テレビやビデオが子どもに与える悪影響が指摘されている。さらに99年に起きた、「ポケモン事件」を覚えている人は多いことと思う。はげしい光の点滅を見ていた多くの子どもたちが、それが原因で倒れた。 安易なテレビづけ、ビデオづけは、子どもの脳の発達においても、好ましくない。「新しい荒れ」の原因にもなっていると説く、評論家(私のことだが……)も、いる。くれぐれも、慎重に! ●ただ歩くだけ 昨夜遅く、ワイフと、近くにできた、超大型ショッピングセンターに行ってみた。「大きい」などと言うものではない。超・デカイ! 今年の夏、畑の中に、こつ然と、姿を現した。 何しろ、駅前にあるデパートを、数個分、集めたようなショッピングセンター。日曜日の夜ということもあって、結構、混雑していた。 が、私は、何かおかしいと、感じた。何か、おかしい? そうだ、みな、ブラブラと、通路を右から左へ、上から下へと、移動しているだけ。当然もっているはずの、買い物袋をもっていない! 買い物に来たのだから、それなりの買い物をしているはず。……したはず。しかしその形跡が、ない! 私たちも、実は、ヒマつぶしに行っただけ。いや、夕食を食べに行っただけ。本当は、近くのレストランで夕食をすます予定だったが、「行ってみようか?」「行ってみよう」ということで、そのショッピングセンターに行った。 しかし後悔した。 何しろ、うどん定食が、900円。私の食べた煮込みうどんも、900円。それが一番、安い料理。小皿のデザートと合わせて、2500円弱! とにかく、高い! バカ高い! ふつうの料理で、1200~1400円。それらが、2000円級の料理の間で、隠れたように並んでいる。 おまけに並んでいる商品を見ても、どれも、ドキッとするほど、高い。冬物のコートが、4万円とか5万円! 子供服が、2万円とか3万円! ついでにパソコンショップものぞいてみた。 3か月前の9月に買った、C社のデジタルカメラが、2万9000円! 先週、Y電気で見たら、同じものを、1万9000円で、売っていたぞ! (私が買ったときは、3万4000円だったが……。その後すぐ、そのカメラから、現在使っているカメラに買いかえた。) 本当なら、近くに大型ショッピングセンターができたことを喜び、応援してやらねばならない。が、どうしても、そういう気にはなれない。私は、こうした消費文明には、ついていけない。 おとといも、愛知県のあの豊田市を電車で通り抜けた。車窓からは、巨大なビルがいくつか見えた。建設中のビルも見えた。あのトヨタ自動車の豊田市である。 私とワイフは、その巨大なトヨタ・シティを見ながら、「すごいなア」「すごいわネ」と言いあった。そういう喜びが、そのショッピングセンターの中を歩いても、わいてこない。まったくわいてこない。 「バカなもの作ったナ」「そうよネ。ムダよ」と。 (041206) ●家族の重圧 昨夜(12・5)、名古屋市に住む友人と、1時間ほど、電話で話した。中学時代からの友人である。その友人が、こんな話をしてくれた。 その友人(57歳・男性)も、名古屋市に住むようになって、もう35年になるという。が、いまだに、実家に、仕送りをつづけているという。こんな話をしてくれた。 「G県の人たちは、ぼくのように、実家を離れた人間を、『出ていった人』と言うんだね。それで実家を守り、育てていくのは、その出ていった人の役目と考えているんだね」と。 こういうことだ。 友人を、M氏としておく。 M氏の実家では、毎月のように、いろいろな人の命日供養をするという。たとえば毎月、12日は祖父の命日供養。18日は祖母の命日供養、28日は父親の命日供養、と。(毎月だぞ!) そしてそれぞれの人の命日に合わせて、年に1度、寺の僧侶を呼んで、供養をするという。それが10回忌、20回忌ともなると、さらにハデになる。近くの料亭を借りて、会食までするという。ふつう、33回忌までするという。 私「それは、たいへんですね」 M「まだ母も元気ですから、しかたないですよ」 私「どうして?」 M「つまりね、供養というのは、母にとっては、小遣い稼ぎの場になっているんですよ」と。 M氏の母親は、そういう形で、子どもたちからはもちろん、親類縁者から、お金を集める。つまりそれが、M氏の母親の集金ビジネスというわけである。 だらかM氏は、こう言う。 「実家思想の強い人は、実家のめんどうをみるのは、出て行った人間の、当然の義務と考えているのですね。だから、ぼくらの都合や、経済状況など、お構いなしです。先月も、祖父の33回忌がありましたが、その費用が、43万円。すべて私が負担しました」と。 もちろん供養として集まった現金は、そのまま、M氏の母親の収入(?)となる。 私「少し、負担を減らしてもらうわけには、いかないのですか?」 M「いえね、子どものときから、『先祖を粗末にすると、地獄へ落ちる』と、母に、さんざん脅されて育っていますから、こわいですよ」 私「ハハ、それはカルトですね」 M「そう、最近になって、少しですが、やっとそれがわかってきました」と。 21世紀になった。その名古屋市では愛知万博も開かれる。T社館では、ロボットたちが、歌って踊ってみせるという。リニアモーター車が、名古屋市と、万博会場を結ぶという。 一方でそういう時代になったのに、その一方で、M氏のように、家族自我群の重圧に苦しんでいる人もいる。少なくない。今、日本は、あの封建時代のトンネルから抜け出ようとしている。が、しかし、まだ完全に抜け出たわけではない。 M氏の話を聞きながら、そんなことを考えた。 ●回顧性 若い人は、未来を見て、人生を考える。これを展望性という。しかし加齢とともに、過去を振りかえることが多くなる。これを回顧性という。 その展望性と回顧性が、交差するのが、満50歳から60歳にかけてと言われている。 しかし人間も、過去の栄華をしのび、それにぶらさがって生きるようになったら、お・し・ま・い。 問題は、回顧性が生まれるのはしかたないとしても、いつ、どこでどのようにして、その過去を切り離すか、だ。「あのころはよかった……」「あの時代はすばらしかった……」と毎日、悶々として生きるようになったら、その人は、死んだも、同然。 その切り離しがうまくいかないと、結局は、「老後」と呼ばれる時代を、ムダにすることになる。 世間では、広く誤解されているが、「老後」というのは、終着駅ではない。晩年でもない。「老後」と呼ばれる時代は、それ自体が、貴重な、人生である。人生そのものである。「死」を考えるとしたら、その死が、目前に迫ってきてからでよい。それまでは、私たちは、生きる。生きて生きて、生きまくる! 私たちは、「老後」という言葉そのものに、おかしな先入観を添えてしまった! 「老後は、ブラブラと、孫のめんどうでもみながら、悠々自適に過ごすのがよい」と。 だから、世の老人たちよ、もっと、外に出ようではないか! 外に出て、外の空気を吸おうではないか! もしあなたの孫が、親のスネをかじって、毎日、道楽三昧。仕事もせず、趣味ばかりに没頭していたら、あなたは、何と言うか? それと同じ言葉を、自分自身に言ってみようではないか。それが生きるということ。 回顧性など、クソ食らえ! もしあなたの息子が、学生時代の華やかさばかりを口にして、そのころのアルバムばかりを見ていたら、あなたは、何と言うか? それと同じ言葉を、自分自身に言ってみようではないか。それが生きるということ。 この回顧性という悪魔は、あなたがその年齢になると、必ず、あなたのところにやってくる。それに打ち勝つか、それとも敗れるかは、これからの心構えで、決まる。 老後こそ、人生の始まりまのだ! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2004.12.06 13:09:26
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