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楽天・日記 by はやし浩司

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2004年12月22日
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カテゴリ:カテゴリ未分類
●代理ミュンヒハウゼン症候群(補足)

 子どもを虐待しながら、他人の目の前では、すばらしい母親を演ずる。そんなタイプの虐待が、ふえている。

たとえば子どもを虐待して、ケガをさせたとする。そして子どもが、病院へ入院したとする。そういうとき、子どもの付き添い人として、子どものそばから片時も離れず、子どもの世話をしてみせたりする。

 子どもの背中をさすってみたり、足をマッサージしてあげてみせるなど。子どもは子どもで、母親の姿に、半ばおびえ、そうかといって母親に反旗をひるがえすこともできない。

 こうした虐待を、総称して、代理ミュンヒハウゼン症候群という。(詳しくは、「はやし浩司 代理ミュンヒハウゼン症候群」で検索のこと。)

 この話を、ある会でしたら、実際、そうした虐待を目撃したことがあるという人が現われた。

 その人を、Aさんとしておく。Aさんは、45歳くらい。女性である。

 そのAさんの住むマンションの隣人が、自分の子ども(中2男子)を虐待しているという。ときどき、はげしい罵声が聞こえてくるという。ふつうの罵声ではない。まるでヤクザどうしのけんかのような罵声だという。

 で、その子どもは、中学生にもなるのだが、ハキがなく、おとなしい。いつもオドオドした様子で、自閉傾向も見られるという。

 その女性が、こう言った。

 「ふだんは、つまり私たちの前では、すばらしい母親を演ずるのですね。演ずるというより、どちらが本当の母親なのか、わからなくなります。ですから、ほとんどの人は、その母親を、すばらしい母親だと思っているようです。

 しかも不思議なのは、自分の虐待で、子どもが萎縮しているのに、その意識がまるでないということ。『私はふつうの母親だ』と思いこんでいるみたいです。その上、『私ほど、息子を愛している親はいない』というようなことまで口にします。

 会って話をしていると、何だか、キツネにだまされたみたいな雰囲気になります」と。

 子どもを虐待しながら、その実感をもっていない親は多い。肉体的な虐待はともかくも、言葉による虐待については、とくにそうである。「お前なんか、早く死んでしまえ」「ロクでなし」と、いつも子どもを虐待しながら、それを虐待だと思ってもいない。もちろん罪の意識など、みじんも、ない。

 少し前、代理ミュンヒハウゼン症候群について書いたので、その補足として、この原稿を書いた。
(はやし浩司 代理ミュンヒハウゼン症候群 事例 補足 子どもの虐待 子供の虐待)

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●フリをする母親

 昔、自分を病人に見たてて、病院を渡り歩く男がいた。そういう男を、イギリスのアッシャーという学者は、「ミュンヒハウゼン症候群」と名づけた。ミュンヒハウゼンというのは、現実にいた男爵の名に由来する。ミュンヒハウゼンは、いつも、パブで、ホラ話ばかりしていたという。

 その「ミュンヒハウゼン症候群」の中でも、自分の子どもを虐待しながら、その一方で病院などへ連れて行き、献身的に看病する姿を演出する母親がいる。そういう母親を、「代理ミュンヒハウゼン症候群」という(「心理学用語辞典」かんき出版)。

 このタイプの母親というか、女性は、多い。こうした女性も含めて、「ミュンヒハウゼン症候群」と呼んでよいかどうかは知らないが、私の知っている女性(当時50歳くらい)に、一方で、姑(義母)を虐待しながら、他人の前では、その姑に献身的に仕える、(よい嫁)を、演じていた人がいた。

 その女性は、夫にはもちろん、夫の兄弟たちにも、「仏様」と呼ばれていた。しかしたった一人だけ、その姑は、嫁の仮面について相談している人がいた。それがその姑の実の長女(当時50歳くらい)だった。

 そのため、その女性は、姑と長女が仲よくしているのを、何よりも、うらんだ。また当然のことながら、その長女を、嫌った。

 さらに、実の息子を虐待しながら、その一方で、人前では、献身的な看病をしてみせる女性(当時60歳くらい)もいた。

 虐待といっても、言葉の虐待である。「お前なんか、早く死んでしまえ」と言いながら、子どもが病気になると、病院へ連れて行き、その息子の背中を、しおらしく、さすって見せるなど。

 「近年、このタイプの虐待がふえている」(同)とのこと。

 実際、このタイプの女性と接していると、何がなんだか、訳がわからなくなる。仮面というより、人格そのものが、分裂している。そんな印象すらもつ。

 もちろん、子どものほうも、混乱する。子どもの側からみても、よい母親なのか、そうでないのか、わからなくなってしまう。たいていは、母親の、異常なまでの虐待で、子どものほうが萎縮してしまっている。母親に抵抗する気力もなければ、またそうした虐待を、だれか他人に訴える気力もない。あるいは母親の影におびえているため、母親を批判することさえできない。

 虐待されても、母親に、すがるしか、ほかに道はない。悲しき、子どもの心である。
(はやし浩司 ミュンヒハウゼン症候群 代理ミュンヒハウゼン症候群 子どもの虐待)




●ある離婚

 とうとうというか、ついに、A氏の妻は、子ども(年長男児)を連れて、家を出てしまった。11月のはじめのことだった。

 原因は、性格の不一致。浮気でも、借金苦でもない。夫の暴力でもない。性格の不一致。

いつだったか、A氏の妻は、私にこう言った。「(今の)夫とは、合いません」と。その言葉を、私は、「顔を見るのものいやだ」というふうに解釈した。

 で、そのときの様子だが、私が、A氏に聞いたところでは、A氏の妻は、家財道具を片づけたあと、大掃除をしてから、家を出ていったという。実は、ここが、私の理解のできない点であった。「離婚を覚悟して、家を出ていくような人が、掃除などしていくだろうか?」と。

 そのことをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「女っていうのはね、身辺をきれいにしてから、家を出ていくものよ」と。

 私なら、「あとのことは知ったことか!」というふうにして、家を出る。掃除など、もちろんしない。「いや、ひょっとしたら、奥さんは、また戻ってくるつもりかもよ。だから掃除をしていったんだよ」と、私が言うと、ワイフは、「そうかしら?」と答えた。

 どちらなのだろう? A氏が言った話を思い出しながら、私は懸命に、A氏の妻を理解しようとした。きれいに掃除までしていったというのは、離婚を覚悟したためなのか。それとも、また戻ってくるためなのか。

 もちろん、それまでのいきさつも、ある。突発的な離婚劇なら、私が言うように、「あとのことは知ったことか!」というような様子で、家を出るかもしれない。しかし長い時間をかけての離婚劇なら、きれいに掃除をしてから、家を出る(?)。A氏夫妻のばあい、それまでのいきさつが、長かったということか?

 「そういうものかねえ?」「そういうものよ……」という、意味のない会話がつづく。

 私たち夫婦も、けんかをするたびに、「離婚してやる!」「離婚しましょ!」という話になる。しかし「家を出る」という発想は、たがいに、ない。「財産をきちんと二人で分けて……」というところまでは話は進むが、いつもそこまで。そのうちたがいにめんどうになって、離婚の話は、忘れてしまう。

私「ぼくなら、やはり、掃除など、しないよ」
ワイフ「私なら、掃除をしてから、出ていくわ」
私「そこが、男と女のちがいかねエ?」
ワイフ「自分の思い出を、すべて消すためということもあるわよ……」と。

 A氏の妻は、すべての未練を断ちきって、家を出た。それは自分のシミのようなものを、すべて消し去るためのものだったのか。掃除をしたのはそのため? あとあと迷うことがないように、そうしたとも考えられる。もしそうなら、まさに覚悟の家出ということになる。

私「やっぱり、離婚しかないのかねエ?」
ワイフ「そうかもよ」
私「A氏もつらいだろうね。挫折感もあるだろうし……」
ワイフ「子どもの問題や、養育費の問題もあるわよ」と。

 こういう話は、話せば話すほど、暗くなる。が、かといって、部外者の私には、どうすることもできない。できることと言えば、暖かく、無視すること。それだけ。


● 妻と息子を取りあう、母親

 Bさんは、ひとり息子のX氏をでき愛した。それはわかる。そのため、X氏は、マザコン息子になってしまった。それもわかる。

 しかしあるときから、X氏は、母親のBさんに、反旗ひるがえすようになった。母親のBさんのでき愛に耐えられなくなったからである。が、ことあるごとに、Bさんは、息子のX氏に、離婚を勧めた。「あんな女、家から追い出しなさいよ」と。

 1人の男性をめぐって、嫁、姑(しゅうとめ)のはげしい戦争が始まった。よくあるタイプの戦争である。

 最終的には、X氏は、母親を取るか、妻を取るかの択一に追いつめられた。そして結果として、妻を取った。が、これが当然、Bさんの逆鱗(げきりん)に触れた。が、そのあとBさんが取った、態度が、これまた意外なものだった。

 Bさん(55歳)は、X氏(30歳)の前では、今にも死にそうな、弱々しい母親を演ずるようになった。ときどきX氏に電話をかけてきては、あれこれ泣き言を並べた。X氏は、こう言う。

 「今にも、死にそうな声で、腰が痛いとか、足が痛いとか言うのですね。そこであわててかけつけてみると、電話のことなど忘れてしまったかのように、元気に動き回っているのです」と。

 もともと子どもをでき愛するタイプの母親というのは、心のどこかに、すき間、つまり情緒的な未熟性があるとみてよい。そのすき間を埋めるために、子どもをでき愛する。

 が、そのでき愛が、崩壊したとき、そこで大きな悲劇が生まれる。子どもが母親に、反旗をひるがえしたようなときである。母親は、子どもとの関係を取り戻そうとする。そのときBさんのように、子どもに同情を求めるのを、同情型という。

(ほかに、子どもに攻撃的になる攻撃型、子どもに依存する依存型、子どもに隷属的になる、服従型などがある。)

 X氏は、こう言う。「母が、まるで私の恋人のように、嫉妬して見せるのですね。私の前で、スネて見せたり、甘えて見せたり。しかしそういう母を見ると、ゾッとします」と。

 この段階で、BさんとX氏の間の人間関係が良好なら、まだ救われる。しかしX氏は、こう言う。「まるで執拗(しつよう)なストーカーに、追いかけまわされているような気分です」と。

 未熟なまま、母親になる女性。そして子育てをしながらも、進歩しない女性。自分の心のすき間(=情緒的欠陥)を補うために子どもをでき愛する女性。じょうずに子離れできない女性。そうしたいくつかのファクター(要素)が重なると、ここでいうBさんのようになる。

 母親も、母親という地位と立場に、決して、甘えてはいけない。





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最終更新日  2004年12月22日 13時34分11秒



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