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楽天・日記 by はやし浩司

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2005年05月13日
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カテゴリ:カテゴリ未分類
●親に命令する子ども(2)

 少し前、親に、命令する子どもについて書いた。その原稿について、あちこちから、反響がとどいた。掲示板への書きこみもあった。中に、「自分の子どもなら、虐待と言われてもかまわないから、ぶん殴ってやる」というのもあった。

 しかし、今、このタイプの子どもは、少なくない。

 数か月前も、ある中学校で講演をしたとき、その学校の教頭がこんな話をしてくれた。何でも、ある母親が、その教頭のところにやってきて、こう言ったという。

 「どの高校(進学校)にするかについてですが、私では言えませんので、先生のほうから、言ってください」と。

 つまり子どもの進学問題について、その親は、「進学校の話になると、とたんに大げんかになってしまいます」「親の私では何も言えないので、先生のほうから言ってほしい」と。

 その教頭は、こう言った。「今、大切な会話でさえできない親子がふえていますね」と。

 子どもに遠慮する。まるで腫れ物に触れるように、気をつかう。「子ども(中学生)が勉強を始めたら、廊下を、すり足で歩きます。物音をたてようものなら、何が飛んでくるか、わかったものではありません」と言った母親もいた。

 しかし、それでも、親子は親子。たいていの親は、こう言う。「今だけですから……」と。

 が、これで驚いてはいけない。このタイプの子どもは、むしろ、女子に多いということ。昔は、日本女性を、『大和なでしこ』などと言ったものだが、今では、そういう子どもは、さがさなければならないほど、少ない。

 で、話は変わるが、私は、自転車通勤をしている。その通勤をしているとき、こんなことがある。

 たとえば私が横断歩道にさしかかったとする。そのとき、左右からやってくる車は、私を見て、車を止めてくれたり、スピードを落としてくれたりする。

 しかし、あえて言うなら、そういうとき、女性ドライバーは、まず、車を止めてくれない。スピードも落さない。まるで何かに憎しみをぶつけるかのように、猛スピードで、通りすぎていく。「あぶない!」と思っても、視線を、こちらに向けることもない。若い女性ドライバーほど、そうではないか。

 このことをワイフに話すと、ワイフはこう言った。これはあくまでも、ワイフの説。

 「女性というのは、きっと、会社なんかでも、冷遇されているでしょう。だからそういうときこそ、自分の優越感を、だれかにぶつけたいのではないかしら」と。

 ナルホド!

 いくら友だち親子といっても、その限界を越えてはいけない。友だちは、友だち。しかしその限界を超えて、親子の立場が逆転すると、家庭教育そのものが成りたたなくなる。

子「テメエ、何だ、こんな料理! まずくて食えねえだろオ!」
母「ごめんなさい。今、作りなおしますから」
子「早くしろって言ってるんだよ。これじゃ、学校に間にあわねえヨ」
母「ごめん、ごめん」と。

 問題は、なぜ、そうなるかということ。またそれを防ぐためには、どうしたらよいかということ。

 こうした本末転倒の親子関係は、実は、子どもが幼児のときから始まる。

 子どもが生まれると、それこそ、「蝶よ、花よ!」と、親は子どもを育てる。子どもを楽しませ、子どもによい思いをさせ、そして子どもに楽をさせるのが、親の愛の証(あかし)と誤解する。

 こうしてごくふつうの家庭でも、(ときには貧しい家庭においてでさえ)、ドラ息子、ドラ娘が生まれる。

 こうした(甘い家庭)の背景にあるのが、親自身の精神的な未熟性と、情緒的な欠陥。さらには日本古来の、日本人独特の依存性(=甘え)がある。子どもを、1人の人間としてみるのではなく、モノとみる。あるいはペットとしてみる。

 つまりベタベタの親子関係をつくりながら、親にベタベタと甘える子どもイコール、かわいい子どもイコール、いい子としてしまう。

 ここでいう本末転倒のドラ息子、ドラ娘は、あくまでも、その結果でしかない。

 子どもを愛するということと、子どもをかわいがるということは、まったく、別の問題。

 子どもを愛することには、いつも、何らかのきびしさがともなう。一方、子どもをかわいがるということについては、それがない。親は、そのつど、かわいがりながら、子どもに何らかの見かえりを求める。

 少し前だが、私にこんなことを言った女性(70歳くらい)がいた。

 「あれほど、かわいがってやった息子なんですがね、今では親の恩も忘れて、京都へ行ってしまいましたよ。親なんて、さみしいものですね」と。

 そう言えば、日本語の(かわいがる)(かわいい)(かわいい子ども)という言葉は、1本の糸でつながっているのがわかる。

 ここにも書いたように、日本では、子どもに楽をさせることを、「かわいがる」という。そしてその結果、依存心が強く、親にベタベタと甘える子どもを、「かわいい」という。そしてかわいい子どもほど、いい子とする。

 が、子どもが、幼児期のうちなら、まだよい。しかしやがて手に負えなくなる。先日書いた、「親に命令する子ども」は、あくまでも、その結果ということになる。

 で、こういうケースで、子どもに命令される一方の親が、それだけそうした状態を、「異常」と思っているかといえば、そうではない。親自身が、そういう状態を、受け入れてしまっている。あるいは、それが「ふつう」と思いこんでしまっている。

 長い時間をかけて、そうなる。

 しかし、異常は、異常。

 「テメエ、文句を言わないで、サッサと、宿題を届けろって、言っているんだよオ。下駄箱の中に、○時までに、ちゃんと、入れておけよ!」と。

 まだどこかにあどけなさの残る女子(中学生)が、携帯電話で、親に向かって、そう叫ぶ。

 私は、親子は平等と言っても、そこまでは、許していない。つまりそういう親子関係を認めるほど、寛大ではない。もし私の教え子にそういう子どもがいたら、即刻その場で、退塾させる。

 今まで、そういうことは、一度もなかったが……。

【若いお母さん方へ】

 子どもがかわいいのは、わかります。しかし決して、そのかわいさに負けてはいけませんよ。

 親は親として、き然と生きる。その生きザマが、子どもの心を、まっすぐ伸ばします。決してやりすぎない、(ほどよい親)に、どうか、心がけてください。いらぬお節介かもしれませんが……。





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最終更新日  2005年05月13日 09時30分38秒



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